スーザン・ワインチェンク『インタフェースデザインの心理学―ウェブやアプリに新たな視点をもたらす100の指針』(オライリー・ジャパン)から話題を取りあげたい。この本はこのブログに再三登場してるが、やはり面白く、役に立つ本だとしか書きようがない。アマゾンで本書を検索してコメントを見たところ、評価の低いコメントがあり、知っていることばかりだとこき下ろしていた。確かにどこかで聞いたことのある話ばかりだと言って良いかも知れない。しかし、これだけ広範な話題を、参考文献付きで要領よく解説した本を他に知らない。記事は100個あるので、100回取りあげてもおかしくなかった本だと思う。
メンタルモデルとは、目の前のものに対して、それがどのようなものであるかを人が理解した結果、頭の中に構築されるその人なりの「像」である。ワインチェンクは以下のように定義を紹介している。
メンタルモデルは、目の前のものが複雑すぎて完全な理解が不可能な場合に、当座の作業仮説として「こんなものだ」と作成される大雑把な近似であることが多い。例えばスマートフォンであれば、画面にボタン(の画像)が表示された場合に、「これはボタンと同じだ」というメンタルモデルを作成する。従って、押すのではなくスライドさせるもの(スライダと呼ばれる)であれば、違った形にして、同じメンタルモデルが当てはまらないことをユーザーに伝えなければならない。
私が問題にしたいのは、疾病のメンタルモデルだ。病気には原因があり、食事や生活習慣の影響が大きく、治療薬があると漠然と思っている人が多い。ところが実際はそうでないことが多い。例えば、めまいの原因は半分が不明だ。特に発症や再発を予防する方法は無い。また治療薬もない。
めまいの治療薬がないと言うと、驚く人が多いかも知れない。実際めまいで受診すると「めまいの薬」を処方されることがある。しかし、めまいの薬として処方される薬は、実は「めまいと言う病気」を直接治す薬ではない。処方される薬の代表的なものを挙げる。
では、なぜこのような薬を処方するのだろうか。ひとつには患者のメンタルモデルを修正するのは非常に困難で時間がかかるので、医師が妥協するという事情があるだろう。「薬は無い」と言うと怒りだす患者がいたり、「あそこでは薬もくれなかった」と陰口をたたかれることがある。もうひとつの理由として、医師の側にも同じようなメンタルモデルが存在している可能性があるのではないだろうか。
話を元に戻すと、ワインチェンクは次の節で概念モデルについて説明している。
アプリケーションのデザインで言えば、概念モデルを提示するのはアプリケーションのデザイナーである。デザイナーがユーザーの持つメンタルモデルと全く異なる概念モデルを提示すれば、ユーザーは混乱する。例えば電子書籍であれば、「電子書籍」と聞いたユーザーはメンタルモデルを頭の中に作る。ページはどのように表示されるのか、どのように次のページに進むか、しおりはどのように挟むか、後どれぐらい残っているかをどう判断するかなどを漠然と推測する。そして、実際の電子書籍を使ってみて、自分のメンタルモデルを修正しながら、使い方に習熟して行く。この時、電子書籍の操作法の規則性をまとめるのが概念モデルである。本がカードのようなものなのか、巻紙なのか、冊子なのかを概念として持っている。メンタルモデルと概念モデルが一致すれば使いやすいアプリになり、両者が大きく相違すれば、使いにくいアプリになる。
疾患にも概念モデルに相当するものがある。医師が持っている疾患像はそれに近いだろう。しかし、疾患の概念モデルを理解するには、相当程度の医学的知識が必要となる。そのために患者に対して概念モデルを提示することが困難になっている。しかしこのギャップを何とかして埋めることができなければ、良質の医療は実現できないだろう。
メンタルモデルとは、目の前のものに対して、それがどのようなものであるかを人が理解した結果、頭の中に構築されるその人なりの「像」である。ワインチェンクは以下のように定義を紹介している。
少なくともこの25年の間にメンタルモデルの「定義」はいくつも提案されてきました。筆者のお気に入りはスーザン・ケアリーのもので、次のような定義です。
メンタルモデルは、ある物事が機能している仕組みをその人がどう理解しているか(その物事が関与する世界をどう理解しているか)を表現したものである。メンタルモデルは、全体像が把握されてはいない事実や過去の経験、そして直感にも影響される。こうしたものがメンタルモデルを構築している者の行動、ふるまいに影響し、複雑な状況で何に注意を払うかの判断基準となり、問題に対するアプローチ方法や解決方法を決める。
なお、これとは別の定義をしている人もいます(たとえば、インディ・ヤングは著書“Mental Models”の中でかなり異なる定義をしています)。(79ページ)
メンタルモデルは、目の前のものが複雑すぎて完全な理解が不可能な場合に、当座の作業仮説として「こんなものだ」と作成される大雑把な近似であることが多い。例えばスマートフォンであれば、画面にボタン(の画像)が表示された場合に、「これはボタンと同じだ」というメンタルモデルを作成する。従って、押すのではなくスライドさせるもの(スライダと呼ばれる)であれば、違った形にして、同じメンタルモデルが当てはまらないことをユーザーに伝えなければならない。
私が問題にしたいのは、疾病のメンタルモデルだ。病気には原因があり、食事や生活習慣の影響が大きく、治療薬があると漠然と思っている人が多い。ところが実際はそうでないことが多い。例えば、めまいの原因は半分が不明だ。特に発症や再発を予防する方法は無い。また治療薬もない。
めまいの治療薬がないと言うと、驚く人が多いかも知れない。実際めまいで受診すると「めまいの薬」を処方されることがある。しかし、めまいの薬として処方される薬は、実は「めまいと言う病気」を直接治す薬ではない。処方される薬の代表的なものを挙げる。
ビタミンB12:障害された神経が修復されるときに必要とされる。神経障害が無ければ意味があるとは言えない。特に「めまい」を治しているわけではない。
ATP製剤:ATPは細胞のエネルギー源となる物質であるが、内服したものが細胞内にどれだけ取り込まれるかには異論がある。また、全身投与であり、疾病の直接的な治療を目的としたものではない。
抗ヒスタミン剤:めまいの随伴症状、不快感を軽減すると言われている。副作用として眠くなるので、そのためにめまい感が軽減するのかもしれない。神経の信号伝達を障害してめまいを止める(軽くする)という説もあるが、実際のところは不明。
精神安定剤:神経の働きを抑制するので、めまいの症状を抑える効果が期待できる。最も「治療」に近い働きをする。しかし、疼痛に対して鎮痛剤を投与しているようなもので、治療と言えるかどうかは考え方による。副作用として眠くなることが良いのかも知れない。
ステロイド:効果の機序は不明。「治療」に近いかも知れないが、機序が不明なので、これも治療しているとは言いづらい。
では、なぜこのような薬を処方するのだろうか。ひとつには患者のメンタルモデルを修正するのは非常に困難で時間がかかるので、医師が妥協するという事情があるだろう。「薬は無い」と言うと怒りだす患者がいたり、「あそこでは薬もくれなかった」と陰口をたたかれることがある。もうひとつの理由として、医師の側にも同じようなメンタルモデルが存在している可能性があるのではないだろうか。
話を元に戻すと、ワインチェンクは次の節で概念モデルについて説明している。
メンタルモデルは対象のシステム(ウェブサイト、アプリケーション、製品など)を利用者が(心の中で)どう捉えているかを表現したものです。これに対して概念モデルは、実際にシステムを利用するユーザーが、そのシステムのデザインやインタフェースに接することによって構築するモデル―より実態に近い具体的なモデルです。(81ページ)
アプリケーションのデザインで言えば、概念モデルを提示するのはアプリケーションのデザイナーである。デザイナーがユーザーの持つメンタルモデルと全く異なる概念モデルを提示すれば、ユーザーは混乱する。例えば電子書籍であれば、「電子書籍」と聞いたユーザーはメンタルモデルを頭の中に作る。ページはどのように表示されるのか、どのように次のページに進むか、しおりはどのように挟むか、後どれぐらい残っているかをどう判断するかなどを漠然と推測する。そして、実際の電子書籍を使ってみて、自分のメンタルモデルを修正しながら、使い方に習熟して行く。この時、電子書籍の操作法の規則性をまとめるのが概念モデルである。本がカードのようなものなのか、巻紙なのか、冊子なのかを概念として持っている。メンタルモデルと概念モデルが一致すれば使いやすいアプリになり、両者が大きく相違すれば、使いにくいアプリになる。
疾患にも概念モデルに相当するものがある。医師が持っている疾患像はそれに近いだろう。しかし、疾患の概念モデルを理解するには、相当程度の医学的知識が必要となる。そのために患者に対して概念モデルを提示することが困難になっている。しかしこのギャップを何とかして埋めることができなければ、良質の医療は実現できないだろう。