阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2013年05月

スーザン・ワインチェンク『インタフェースデザインの心理学―ウェブやアプリに新たな視点をもたらす100の指針』(オライリー・ジャパン)から話題を取りあげたい。この本はこのブログに再三登場してるが、やはり面白く、役に立つ本だとしか書きようがない。アマゾンで本書を検索してコメントを見たところ、評価の低いコメントがあり、知っていることばかりだとこき下ろしていた。確かにどこかで聞いたことのある話ばかりだと言って良いかも知れない。しかし、これだけ広範な話題を、参考文献付きで要領よく解説した本を他に知らない。記事は100個あるので、100回取りあげてもおかしくなかった本だと思う。

メンタルモデルとは、目の前のものに対して、それがどのようなものであるかを人が理解した結果、頭の中に構築されるその人なりの「像」である。ワインチェンクは以下のように定義を紹介している。
少なくともこの25年の間にメンタルモデルの「定義」はいくつも提案されてきました。筆者のお気に入りはスーザン・ケアリーのもので、次のような定義です。
メンタルモデルは、ある物事が機能している仕組みをその人がどう理解しているか(その物事が関与する世界をどう理解しているか)を表現したものである。メンタルモデルは、全体像が把握されてはいない事実や過去の経験、そして直感にも影響される。こうしたものがメンタルモデルを構築している者の行動、ふるまいに影響し、複雑な状況で何に注意を払うかの判断基準となり、問題に対するアプローチ方法や解決方法を決める。

なお、これとは別の定義をしている人もいます(たとえば、インディ・ヤングは著書“Mental Models”の中でかなり異なる定義をしています)。(79ページ)

メンタルモデルは、目の前のものが複雑すぎて完全な理解が不可能な場合に、当座の作業仮説として「こんなものだ」と作成される大雑把な近似であることが多い。例えばスマートフォンであれば、画面にボタン(の画像)が表示された場合に、「これはボタンと同じだ」というメンタルモデルを作成する。従って、押すのではなくスライドさせるもの(スライダと呼ばれる)であれば、違った形にして、同じメンタルモデルが当てはまらないことをユーザーに伝えなければならない。

私が問題にしたいのは、疾病のメンタルモデルだ。病気には原因があり、食事や生活習慣の影響が大きく、治療薬があると漠然と思っている人が多い。ところが実際はそうでないことが多い。例えば、めまいの原因は半分が不明だ。特に発症や再発を予防する方法は無い。また治療薬もない。

めまいの治療薬がないと言うと、驚く人が多いかも知れない。実際めまいで受診すると「めまいの薬」を処方されることがある。しかし、めまいの薬として処方される薬は、実は「めまいと言う病気」を直接治す薬ではない。処方される薬の代表的なものを挙げる。
ビタミンB12:障害された神経が修復されるときに必要とされる。神経障害が無ければ意味があるとは言えない。特に「めまい」を治しているわけではない。
ATP製剤:ATPは細胞のエネルギー源となる物質であるが、内服したものが細胞内にどれだけ取り込まれるかには異論がある。また、全身投与であり、疾病の直接的な治療を目的としたものではない。
抗ヒスタミン剤:めまいの随伴症状、不快感を軽減すると言われている。副作用として眠くなるので、そのためにめまい感が軽減するのかもしれない。神経の信号伝達を障害してめまいを止める(軽くする)という説もあるが、実際のところは不明。
精神安定剤:神経の働きを抑制するので、めまいの症状を抑える効果が期待できる。最も「治療」に近い働きをする。しかし、疼痛に対して鎮痛剤を投与しているようなもので、治療と言えるかどうかは考え方による。副作用として眠くなることが良いのかも知れない。
ステロイド:効果の機序は不明。「治療」に近いかも知れないが、機序が不明なので、これも治療しているとは言いづらい。

では、なぜこのような薬を処方するのだろうか。ひとつには患者のメンタルモデルを修正するのは非常に困難で時間がかかるので、医師が妥協するという事情があるだろう。「薬は無い」と言うと怒りだす患者がいたり、「あそこでは薬もくれなかった」と陰口をたたかれることがある。もうひとつの理由として、医師の側にも同じようなメンタルモデルが存在している可能性があるのではないだろうか。

話を元に戻すと、ワインチェンクは次の節で概念モデルについて説明している。
メンタルモデルは対象のシステム(ウェブサイト、アプリケーション、製品など)を利用者が(心の中で)どう捉えているかを表現したものです。これに対して概念モデルは、実際にシステムを利用するユーザーが、そのシステムのデザインやインタフェースに接することによって構築するモデル―より実態に近い具体的なモデルです。(81ページ)

アプリケーションのデザインで言えば、概念モデルを提示するのはアプリケーションのデザイナーである。デザイナーがユーザーの持つメンタルモデルと全く異なる概念モデルを提示すれば、ユーザーは混乱する。例えば電子書籍であれば、「電子書籍」と聞いたユーザーはメンタルモデルを頭の中に作る。ページはどのように表示されるのか、どのように次のページに進むか、しおりはどのように挟むか、後どれぐらい残っているかをどう判断するかなどを漠然と推測する。そして、実際の電子書籍を使ってみて、自分のメンタルモデルを修正しながら、使い方に習熟して行く。この時、電子書籍の操作法の規則性をまとめるのが概念モデルである。本がカードのようなものなのか、巻紙なのか、冊子なのかを概念として持っている。メンタルモデルと概念モデルが一致すれば使いやすいアプリになり、両者が大きく相違すれば、使いにくいアプリになる。

疾患にも概念モデルに相当するものがある。医師が持っている疾患像はそれに近いだろう。しかし、疾患の概念モデルを理解するには、相当程度の医学的知識が必要となる。そのために患者に対して概念モデルを提示することが困難になっている。しかしこのギャップを何とかして埋めることができなければ、良質の医療は実現できないだろう。

岩田誠・河村満:編『ノンバーバルコミュニケーションと脳―自己と他者をつなぐもの』(医学書院)の中から、面白いと思ったことをさらに取り挙げる。

第6章「視線認知の障害」では、視線効果の話が印象的だった。被験者に次々と目標物を示して、それを表示してから検知するまでの時間を測る実験をする。目標物は様々な方向に表示する。その場合、目標物を表示する前に、表示する方向を示す矢印や視線(その方向を見ている目の写真)を示すと、検出までの時間が短縮する。これを矢印効果、視線効果と呼ぶのだそうだ。視線と逆方向に目標物を表示すると、検出が遅くなるというが、これは当然だろう。面白いのは次の事実である。
特に視線効果に関しては、視線方向と逆方向にtarget[引用者注:目標物]が現れる確率を高くして、その旨を被験者に明言した条件においても、視線方向につられた反応(その結果、課題成績が低下しても)を示すことが報告されている。他者の視線方向が、いかに強い吸引力をもって自身の注意を惹きつけているかを如実に語っている現象であると考えられる。(64ページ)

この、矢印によって示すというのは指で示すことを記号化したものだろうが、矢印あるいは伸ばした人差し指が方向を示す機能を持つということが情報を受け渡しする両者で共有されていなければならない。
知覚された身体の動きがコミュニケーションに利用されるには、その動作の目的や意味、意図が理解される必要がある。例えば、ネコに対してどこかを指差しても、指差した方向には注意を向けず、指の匂いを嗅いだり指をなめたりする。つまり、この場合指が差し出されたことは知覚されていても、指の差す方向へ注意を向けることは理解されていない。ある動作のコミュニケーション上の意味は、動作の動きそのものに含まれているわけではないと言える。動作によるコミュニケーションが成立するためには、指を指す=指を向けた方向に注意を向ける、ということが情報の発信者と受信者で共有されている必要がある。(81ページ)

上の引用は第2部の第1章「身体性コミュニケーションとその障害」からのものである。この章では意味の共有の基盤としてミラーニューロン(ヒトの場合、単一のニューロンは確認されていないのでミラーシステムと呼ぶ方が妥当だとの記載が112ページにある)を想定している。さらに、片麻痺の症例では麻痺側の動作認知が、健側の動作認知に比べて困難であることが知られているという。
動作認識の障害は、視覚的な認識だけでなく、より広い側面に生じる。例えば、動作の表出障害がみられる症例では、表出困難な動作に関連した音(例;ハサミで切る音、ストローで飲む音)の認識が困難となる。興味深いことに、手の動作障害が強い症例では手の動作音の認識が困難であり、口の動作障害が強い症例では口に関連した動作音の認識が困難となる。(82ページ)

「情動の認知」の節(84ページ)では、人が相手の感情を動作からも読み取っていることが示され、表情と動作が一致しない写真を提示された場合、情動の読み取りが遅れることが紹介されていた。
この実験で被験者は顔の表情を回答することを要求されていたので、顔だけに注意を払っていればこの課題は遂行できるはずである。しかし、顔と身体の情動が一致している場合に比べ、不一致の場合に成績が低下していた。つまり、ヒトは意識していなくても身体動作から発信される情動情報を処理しているといえる。また、顔と身体が不一致の場合、刺激提示の100ms以内にEEG[引用者注:脳波]の反応がみられた。このことは、顔と身体での情動の食い違いは、情報処理のかなり早い時期から検出されていることを示している。(84ページから85ページ)

相手の情動を読み取ることは、場合によっては生死を分けることであるから、読み取りが早期に処理されるように進化してきたのは当然だろう。

フロイトの無意識論や夢分析を持ち出すまでもなく、人間が無意識に行っている情報処理は膨大である。意識にのぼるのはその一部と言って良い。多くの情報は無意識下で処理されて行く。問題なのは「人は脳で考える」などと言った時に、意識のレベルしか考慮せず、無意識のレベルを全く忘れ去っている場合が多いことである。養老孟司の『唯脳論』に対する批判も、脳で処理されるのが意識されていることだけという誤解に基づいていることが多いように思える。

人は相手の動作を自分の動作として受け止め、自分の動作を情動に翻訳する。その時、相手の動作が自分の脳内で再現されているのと同様に、相手の情動も自分の中で再現されているだろう。怒っている相手を見れば、自分の中にも怒りが湧くし、笑っている人を見れば、思わず微笑んでしまう。人の無意識の行動パターン、特に他者との関連において行動するパターンの影響がいかに大きいかを推測させる事実である。

この共感が言語の基盤になっているのではないか。矢印の記号性は指を差す動作の意味から抽出されたものだろう。指を差す動作の意味は、動作を共有することにより共有され、意味として抽出される。言語の抽象性は動作の共有を基盤として抽出されたものではないかと想像する。

『五体不満足』の著者、乙武洋匡がレストランに入店拒否をされたということで、ツイッターが炎上したと言う。そのことに関して、日経ビジネスオンラインに2本の記事が相次いで掲載された。2013年5月22日に掲載されたのが慎泰俊の『「乙武炎上」にみる、日本人の不寛容さの理由―余裕と「マイノリティ経験」が人を寛容にする』(http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20130521/248370/?P=1)、5月24日に掲載されたのが、小田嶋隆の『人権はフルスペックで当たり前』(http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20130523/248527/?P=1)だ。

入店拒否の詳細は(乙武側からの視点ではあるが)乙武ブログ(http://ototake.com/mail/307/)にある。要は、車椅子で入れない2階のレストランで、知らずに行った乙武が、抱えて入れてもらえないか頼んだところ、冷淡な対応をされたという話である。乙武がレストランの実名を出してツイッターに書いたため、炎上した(炎上とは非常に多くの書き込みが短時間で行われ、混乱すること)。

慎の記事では入店拒否についてと、炎上についての双方が取りあげられているが、小田嶋の記事では炎上についてのみ扱っている。
突発的な出来事には、その偶然性だけによらない何らかの貴重な情報が含まれている場合が多い。(慎)

確かに今回の事件は、ある意味で象徴的な出来事だろう。慎は炎上に参加した人々が不寛容であるとして、その原因を探ろうとする。
今回の一連の騒動では、そこかしこで当事者でない私たちの不寛容さが散見された。入店を拒否した店長を罵倒する人にも、乙武さんを責める人にも、そして、自身のTwitterで脊髄反射的に外野の人々の不寛容を批判した私自身にも。
この不寛容は、一体どこからやってくるのだろうか。 (慎)

慎は、もし同様のことがロンドンで起これば、炎上は起きなかっただろうし、そもそも入店拒否はなかっただろうと言う。ロンドンでは赤ん坊をベビーカーに乗せて地下鉄に乗る客がいると、周囲の乗客は赤ん坊に気を遣う。あからさまに嫌な顔をする人が多い日本とは対照的だ。

この日本人に一般的に見られる不寛容の原因を、慎は日本人の忙しさ、言葉を換えれば余裕のなさと、日本社会の多様性の無さに求める。慎は日本人が働き過ぎだと言う。
例えば過労死。この言葉は、英語圏ではそのままKaroshiという言葉になっているが、それは、過労死をする人間がそもそもいないからだ。ヨーロッパで過労死の話をしたらとても驚かれる。「なぜ家族のために働くのに、死ぬほどに働くのか」と。 [中略]
定量的に比較することはできないが、実感ベースで日本の労働環境は、決して余裕があるものとはいえないし、それが人々を「思いやりのない人」「寛容でない人」にしているのかもしれない。(慎)

また、日本の同質性については次のように述べる。
日本のように国民の同質性の高い国では、マイノリティとしての経験をしたことのある人が少ない。少数派の居心地の悪さ、少数派ゆえに受ける不利益を経験したことがないと、不利益を被っている少数派に対して、「他人事ではない」と感じることがなくなるのではないか。同質性の高いコミュニティが異質なものに対して不寛容になりがちなのは、こういったことに理由があるのかもしれない。 (慎)

一方、小田嶋の指摘は厳しい。
今回、乙武さんに対して非難の声を上げていた人たちに通底していたのは、乙武さんを、障害者である以上に、ある種の「特権階級」として扱おうとする態度だった。[中略]おそらく、乙武さんが、無名の貧しい身体障害者で、入店を拒否されたのが庶民的な町の食堂であったのなら、彼らの「同情」の持ち方は、もう少し違っていたはずだ。
別の言い方をするなら、あるタイプの人々の「同情」は、「自分より低い位置にいる」ことが確認されている対象に対してしか発動されない設定になっていて、何かの基準で、「同情に値しない」ポイントを超えると、サービスは無効になるということだ。(小田嶋)

そして彼は「同情」するのではなく、「人権」が侵害されたかどうかを考えるべきで、人権とは無条件で全ての人々に与えられ、保証されているものだと指摘する。ところが、政府内部にまで人権に条件を付けようとする考え方があるのだ。小田嶋は「週刊東洋経済」の2012年7月7日号に、世耕弘成参議院議員が、記名で書いた記事を引用していた。その中に「フルスペックの人権」という表現があるが、生活保護を受けている人間の人権は制限されて然るべきと言う主張だ。

小田嶋は、これは生産性だけで人を評価する態度であり、誤りだと断言する。
われわれは、世界を効率的ならしめるためにこの世に生まれたわけではないし、社会的な生産量を極大化するために生きているのでもない。
順番が逆だ。
むしろ、そもそもバラつきのある個々人であるわれら人間が、それぞれに違った方法と条件で、個々の快適な時間を過ごすために、社会が設計されている…というふうに考えるのが本当のはずなのだ。
誰もが障害と無縁なわけではない。
この先、老いて死ぬまでの間には、必ず車椅子や杖の世話になる時期がやってくる。
その時に、それぞれの身体的条件を社会に適合させるための道具や施設や制度が、近視の人間にとっての眼鏡や、歯を抜いた人間にとっての義歯のように、効果的にサポートしてくれるのであれば、それは、万人にとっての利益であるはずではないか。 (小田嶋)

その通りと感じる。この後、小田嶋は「偽善的なことを書いてしまった」と後悔するのだが、それが小田嶋らしいところだ。

日経ビジネスオンライン2013年5月22日の遠藤誉『中国の「沖縄領有権論議」は本気なのか?―主張と狙いを人民日報から読む』 (http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20130521/248312/?mlp)を読んだ。昨日のブログで「発言には内容と意図とがある」「外交や政治では、嘘やハッタリの類いは日常茶飯事」と書いたが、この記事のことが念頭にあった。

中国は日本を揺さぶろうとしている。言論で揺さぶろうとしているのだから、対処を間違わなければ、何と言うことはない。ところが、その対処がうまく行っていないように思えて、心配でならない。

遠藤誉は今年2月14日に同じ日経ビジネスオンラインでの連載『中国国盗り物語』に「中国共産党も知っていた、蒋介石が『尖閣領有を断った』事実」というタイトルで記事を書いていた(http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20130208/243504/?P=1)。
1943年12月1日に日本の戦後処理を巡って連合国側から「カイロ宣言」が出されたことは周知のとおり。後のポツダム宣言のひな形はここで作られた。しかし、その宣言が出される前に当時の中国、すなわち「中華民国」の蒋介石主席とアメリカ合衆国のルーズベルト大統領との間に交わされた機密会談を知る人は、戦中・戦後史の研究家を除けばそう多くはない。イギリスのチャーチル首相は参加せず、蒋介石とルーズベルトの二人だけによる、完全な密室会談だ。 (2月14日の記事より)

ここで、ローズベルト(こちらの発音の方が正しい。加藤陽子はこちらの表記を使っていた)が蒋介石に「日本を敗戦に追いやった後、琉球群島をすべて中華民国(中国)にあげようと思うが、どう思うか」と何度も聞いたのに、蒋介石が断ったという話を、中国共産党の「中国共産党新聞網」(網はウェブサイト)、中国政府の新聞である新華社の「新華網」が掲載していたと言うのだ。この中国政府自身による情報によれば、現在中国政府が行っている「日本が尖閣諸島をドサクサに紛れて掠め取った」という議論は成り立たないことになる。

この記事の最後で、遠藤は次のように付記している。
(筆者は、この「カイロ密談」を含めた一連の情報を中国が認めて、威嚇行動をやめることを望む。そして安倍内閣には、これらの情報を最大限に活用し、尖閣問題の平和的手段による解決を図ることを切望する)(2月14日の記事より)

しかし、日本政府は有効なキャンペーンを行わなかったようだ(日頃新聞を読む時間も無く、朝のテレビニュースが主な情報源なので、これは遠藤の5月22日の記事からの憶測である)。そんな悠長な日本を尻目に、中国政府は沖縄が日本の一部であることを疑問視するような記事を公開した。
米韓が首脳会談を開いていた5月8日、北京では、もう一つのややこしいことが起きていた。中国共産党の機関紙である「人民日報」が、「馬関条約(下関条約)と釣魚島(尖閣諸島)を論じる」というタイトルの論文を載せたのである。中国政府のシンクタンクである中国社会科学院の学院学部委員・張海鵬と同科学院の中国辺彊史地研究センター研究員・李国強の共著だ。(5月22日の記事より)

この論文ではカイロ密談の前半部分、中国に琉球諸島を委譲する理由としてローズベルトが言った言葉「日本はかつて不当な手段でこの群島を争奪した。したがって(日本から)剥奪すべきだ」の方を取りあげて、議論を組み立てている。中国が自分に不利な事実だったはずの「カイロ密談」を逆利用し始めたと、遠藤は指摘する。

中国人相手の交渉は難しい。彼等は元々文化として交渉が特異なのだろう。思いやりや遠慮の文化の日本人が対等に渡り合うのは特に難しいと思う。今回の中国の動きは「ダメもと」で極端な条件を出してくるという、交渉の常道ではないだろうか。遠藤が指摘するように、尖閣諸島の共同開発あたりに落としどころを持ってくるための工作だろうと思う。日本としては、相手の態度と釣り合いの取れた(強い)態度で臨むのが、交渉の原則だろうが、「日本の態度」というのは政府の態度だけではなく、マスコミの論調、世論の動向を含めての話である。おっとりとした日本人が、総体として毅然とした、かつ大人の泰然とした態度を取れるか、注目しておきたい。橋下流ではダメなことは良く分かる。

日経ビジネスオンライン2013年5月17日に小田嶋隆が『「負けると分かっていても戦う」理由』というコラムを書いている(http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20130516/248178/)。橋下大阪市長の従軍慰安婦発言を取り扱った文章だ。この話題はあまりにもホットなので、このブログで取り挙げるのをためらっていたが、様々な記事を読んでいるうちに、やはり「避けて通れない」ような気がして、書くことにした。

私は専門家ではないので、この問題に関してしっかりとした根拠に基づく論評と言うものができない。これは私の本音だ。勿論、従軍慰安婦の専門家がいると思っているわけではない。近現代史や政治の専門家ではないということだ。これをこの問題に対する自分の限界と感じている。分を弁えてブログを書こうとしていると言い換えても良い。引け目に感じていると言っても良い。ただ、私が、一般的に知られている歴史的事実を前提とし、常識と倫理を根拠として論評することができると言うのは、当然のことだ。

小田嶋はこう書いている。
当サイト(日経ビジネスオンライン)にも、5月16日更新分のエントリーで、慎泰俊さんが行き届いた記事[引用者注:http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20130515/248120/]をアップしている。こういうものを読んでしまうと、私のような者が、余計な言葉を付け加える気持ちにはなりにくい。

私も同様に思う。私が提起できるのは、なぜ高々100年ほど前のことなのに、こうも真相が明らかにならないのかということと、なぜ一部の政治家はこうも品性に欠けるのかということだ。しかし、小田嶋は別の視点から書いている。
当欄では、市長の発言そのものよりも、橋下さんの「態度」に焦点を当てて、事態の経緯を見直してみるつもりでいる。私としては、橋下市長の、常にも似ない頑なな態度の裏にあるものが、少しでも見えてきたらうれしいと思っている。

私も、橋下の意図に付いて考えたことを書いてみたい。

発言には内容と意図とがある。橋本市長の発言の「内容」は品性下劣の一言に尽きる。人は向上心を持たねばならない。理想を持たねばならない。向上心も理想も持ち合わせていない人々がいるのは事実であるが、それは現実ではあるが、改善すべき現実である。少なくとも教師や政治家はそう考えるべきではないか。問題は彼の「意図」である。

いくつか確認しておきたい。まず、外交や政治では、嘘やハッタリの類いは日常茶飯事である。そして、閣僚の靖国神社参拝問題や従軍慰安婦問題で、なぜ日本を統治占領していた米国が猛反発するのでなく、中国や韓国が猛反発するのかという理由は、内田が『街場の中国論』で述べていたように、米国は日中韓が連合するのを嫌っているので敢て放置していると考えるのが一番筋が通っている。さらに、外国のメディアでは安倍晋三はナショナリストと見られて右翼に分類されており(石原慎太郎は極右に分類されているそうだ)、日本の侵略を認めた村山談話に対する安倍内閣の態度などから、現在の政権ないし国内情勢に対し、海外では強い警戒感を持っている国が多い。

小田嶋は橋下が「機を見るに敏」だと評価している。
橋下市長は、ご存じの通り失言の多い人だし、失言以外にもあれこれ失敗を犯したことのある人だけど、彼は撤退すべき時はすばやく撤退するし、謝罪が必要だと判断すれば非常に潔い態度で謝ることができる。

小田嶋が言及している慎泰俊の記事の中で、慎も次のように述べる。
橋下市長は言葉をかなり丁寧に使い分けている、というのが私の感想だ。例えば、彼は選挙期間中にTwitterでネット選挙禁止の仕組みを批判していたが、発言そのものは特定の候補者を支持するような内容を一切含んでおらず、ぱっと見には勇ましく体制批判をしているように見えても、実際には公職選挙法に抵触していない。

橋下の経歴からは教育レベルも知的レベルも高と推定されるから、この2人の評価は一般的なものだろう。その橋下が執拗に発言を繰り返して撤退せず、謝罪も明らかに嫌々行っていることに、何らかの意味があるのではないかと思えるのである。
小田嶋は、橋下の心の中の「マッチョ」の問題だと言う。
今回、「慰安婦」および「風俗」に関連する話で、彼がいつものように素早く撤退できなかったのは、「マッチョ」であるということが、彼にとって、自分のセルフイメージを保持するために、譲れない一線であるからだと、私は考えている。[中略]相手が、教育委員会や、労組や、新聞メディアといった、普段からのなじみの敵であれば、彼は、いつでも戦術的な謝罪を繰り出すことができる。なぜなら、それほど敵を恐れてもいないし、重要視もしていないからだ。
が、相手が米軍だと、簡単に謝れなくなる。
強い相手にアタマを下げることは屈辱だし、なによりセックスがらみの話題で自説を引っ込めることは、彼の中の「マッチョ」が許さないからだ。

それも一理あるだろう。しかし私は彼の狙いが別にある可能性もあると思う。日本維新の会の人気が急上昇し、他の政党からも盛んに声がかかるようになった。他の政党と連合すると協定に縛られて、自由な動きがしづらくなる。彼は、支持者を絞り込んで、気分で支持しているような層を切り離し、より強く支持している者だけを残そうとしたのではないか。強力な刺激剤で混乱を起こし、誰が信頼に足るか、今後誰を取り込むか、慎重に見渡しているのではないかと思う。

ただ、そうだとしても、彼の作戦が失敗であり、はしなくも彼の品性の下劣さを露呈しただけだったというのが私の最終評価である。

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