阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2013年05月

内田樹の『街場の大学論―ウチダ式教育再生』(角川文庫)を読んでいる。今日もその中から取りあげたい。

内田は「論文は贈り物である」と言う。
学術論文は何のために書くのか。この問いにきちんと答えられる研究者は多くない。というのは、ほとんどの研究者は、「自分の研究業績を上げるために」書いているからである。修論を書く人は「修士号をとるために」書いているし、博論を書く人は「博士号をとるために」書いている。つまり、レフェリーに「査定」されて、合格点を取り、何らかの「リターン」を求めて書いている。
だが、それは考え方がまるで間違っている。論文というのは「贈り物」である。私たちが先人から受け取った「贈り物」を次の世代にパスするものである。
私たちはゼロからの創造として学術論文を書き、その造物主的な偉業に対して学位や業績評価を対価として受け取るのではない。私たちはすでに「贈り物」を受け取っているのである。それを私たちは自分の身体と自分の知性を通して、次の世代に「パス」しようとする。(209ページから210ページ)

そして、贈り物の花は、リボンで飾り、メッセージを添えるのだと言う。私はこの考え方が好きだ。
内田によれば大学の教員で5年間に1編の論文も書いていない教員が25%という調査があると言う(1980年代の文部省の調査)(46ページ)。私の周囲にも論文を書かない者が多い。なぜ書かないかと言えば、人に伝えたいと思うほどのものが見つからないからだと思う。面白いものがあれば、人に伝えたくなるのが人情だろう。私の「自由研究」(http://www.mojitokotoba.com/index.html)が、まさにそうだ。

私の自由研究を、私自身はむちゃくちゃ面白いと思って書いている。頼まれもしないのに、参考文献を買い込み、図書館で調べ、かなりの時間を費やして書いた。おまけに金を払ってサーバーを契約し、ドメインも取得して公開している。つまり、金を払ってでも読んでもらいたい、世の中への心からの「贈り物」である。この「自由研究」の中の「しんにょうの点」を最初に公開したのがVectorの作者ページで、1999年のことである。その後2003年にケーブルテレビのホームページサービスに移動した(http://members.jcom.home.ne.jp/cazz/)。従って10年以上前から公開していることになる。今まで、書家や国文学者から10通に満たないメールを頂いている。しかし、私の「贈り物」を喜んで受け取ってくれた人が数人でもいるということに、この上ない喜びを感じる。

いくら論文を書けと言っても、面白いことがなければ書かない。指導する立場では、自分がつまらないと思って見過ごしていることが、いかに面白いことであるのかを気づかせることが重要だろう。論文を書く立場にあるなら、どんなものを自分が面白いと思うかを知ることが重要だろう。面白いことがあれば自然に論文に書きたくなるし、学会に発表もしたくなる。乗り越えるべき問題があるとすれば、自分が面白いと思っていることがなぜそんなに面白いのかを、他人に分かるように説明することだろう。その点、私の「自由研究」はその問題を乗り越えられているのかどうかが、自分では分からない。学会誌に投稿すれば査読者が見てくれるが、私の場合、研究を投稿する先の当てがない。私の主張は日本の国語教育をひっくり返すほどの主張だと思っており、自分の論文は自分で読んでいても楽しいのだが、やはり普通はどうでも良いと思うようなことなのだろうか。

内田樹の『街場の大学論―ウチダ式教育再生』(角川文庫)を読んでいる。相変わらずのウチダ節である。もちろんそれが悪いと言っている訳ではない。楽しく読める。しかし、彼の語り口があまりにスムーズであるために、大事なことが読み飛ばされるのではないかと心配する。彼の主張は正しい。非常に正しく、かつ攻撃的である。それがまるで冗談か、下手をすれば辛口漫談のように読まれてしまうのではないかと心配するのである。彼の言説を、批判の対象となった者たちが真摯に受け止めれば、それこそ日本が変わるような気がする。
彼は、日本の若者の現状が、教育の成功し過ぎの成果だと述べる。教育で、横並びの均一な人間を作ってきた。何でも人と同じようにしなければ不安で仕方がないように、社会全体で教育してきた。その結果、勉強しない子供たちが生まれたと言う。周りが勉強をしないから、勉強しない。周りが勉強しなければ、自分の相対的位置(学習到達度上の位置)は上がりこそすれ、下がらない。学校は、知識を得ることの面白さを伝えることに失敗し、「役に立つ」知識の教育に走った。面白くないことはやりたくないし、役に立つと実感できない学習はヤル気が起きない。
彼は、常識的に考えられていることをひっくり返して見せる。そうすると、そこに思わぬ新鮮な発見がある。
言葉が聴き手に届くために必要な条件は何だと思いますか?それは何よりも「聴き手に対する敬意」と「メディア・リテラシー」です。この二つは実は同じことなんです。メディア・リテラシーとは日本語で言えば「情報評価能力」ということだと思います(たぶん。私の理解ではそうです)。「情報評価能力」なら、メディアが報じる情報の真偽や信頼性について適切な判断ができる力、というふうにふつうは思いますね。
でも、私はそれはちょっと違うんじゃないかと思うんです。たいせつねメディア・リテラシーは「外から入ってくる情報」に対する適切な評価ができるかどうかじゃなくて、むしろ「自分がいま発信しつつある情報」に対して適切な評価が下せるかどうかではないでしょうか。自分が伝えつつある情報の信頼性について、重要性について、適所性について、きちんと評価が下せるかどうか。自分が伝える情報は真実か。それは伝えるだけの価値のあることか。それはいつどのような文脈の中で差し出されることで聴き手にとってもっとも有用なものになるか。そういう問いをつねに自分自身に差し向けられること、それが情報評価能力ということではないかと私には思われます。(84ページから85ページ)

先日、某国立病院を退職した高名な医師の話を聞いた。彼の死生観を語る講演であったが、はっきり言って失望した。着想が平凡であったからではない。聴衆からの質問にまともに答えられなかったからだ。彼は穏やかな笑みを浮かべ、真摯に、繰り返し同じ話をした。質問者の質問への回答にならない答えを繰り返した。彼が認知症であるとは思わない。老人特有の思考の固着があり、質問者の質問の意図を毎回同様に取り違えるのだろう。しかし、繰り返して質問されても同じ答えを繰り返す彼の姿を見て、自分の考えから離れることができず、自己を客観視できないことを了解した。新しい視点を取り入れて行かなければ、考えは発展しない。彼の考えは既に賞味期限を過ぎていると思った。

このブログについても同じことが言えるだろう。自己の思考を客観化し、評価する能力が低下した場合、このブログには何の価値も無い。このブログの読者は現時点では高々100人ほどであり、厳しい突っ込みもない。自分で自分の能力の低下が分かるのかどうかは、正直言って不安である。能力の低下を予想し、少し早めに始めたブログであるが、能力の低下がいつ始めるか予想が付かないだけに、自分以外の人が何らかの形でブログの管理に関わるような仕組みが必要なのだろうか。

岩田誠・河村満:編『ノンバーバルコミュニケーションと脳―自己と他者をつなぐもの』(医学書院)を読了した。第4部は「脳科学の社会的意義」で、表題にした佐倉論文の章のみとなっている。このようなモノグラフで、扱っている学問領域と社会との関係を正面から取りあげた論文を掲載しているものは少ないのではないか。編者の慧眼に敬服する。

佐倉統は、紹介によれば東京大学大学院情報学環の教授である。彼はまず専門家と社会との歴史を振り返る。最も古くから存在した専門職である医師、法律家、宗教家では専門家集団としての倫理規範が確立し、自律的な集団運営がされていた。科学者が専門家集団として認知されたのは19世紀ごろだそうだ。
英語圏で“scientist”という用語を最初に使ったのは哲学者のWilliam Whewellで、1833年のことである。これは、それまでいわば趣味の領域であった自然科学が、職業として確立してきたことを示している。(191ページ)

しかし、科学者は医師・法律家・宗教家と異なり、直接社会に関与する訳ではないので、社会との関係の成熟が進まなかった。しかし彼は、今日では、「基礎研究者といえどもその社会的な役割を科学者以外にもわかるように簡潔明瞭に説明することが要求されている」とする。これは、社会の平均的知識量が増大し、科学から社会への一方的な知識の贈与という形態が成り立たなくなったからだとしている。彼は科学者と社会との関係の未成熟を示すものとして、以下のエピソードを挙げている。
2004年、日本のすべての国立大学が法人化されたが、その際に衝撃を受けたのは、社会全般におけるこの問題への無関心である。賛成にせよ反対にせよ、関連する意見はほとんどすべてが大学関係者からしか発せられなかった。国立大学の設置形態が変わるというのは1872年(明治5年)の学制発布以来という大変革にもかかわらず、世の関心は低かった。(192ページ)

彼は脳神経科学と社会の関係を専門的に研究し、扱う人材が必要であるとしている。科学と社会のコミュニケーションに関しては学術専門誌も複数あり、複数の国際学会が活発に活動していると言う。米英には大学院に専攻プログラムを設置している大学もあるそうだ。そのような専門家の育成を脳科学領域でも行うべきだということだ。しかし、日本では社会と科学のコミュニケーションを扱う専門家すら育てるプログラムがない。まずそこから始めるべきだろう。このことは医学と社会のコミュニケーションについても言える。たとえば医療メディエータも両者のコミュニケーションを支える人材と言えるだろう。そのような人材を専門的に育成する必要があると思う。

また、彼は、脳神経外科の裾野が広がることにより、科学的に不明確な結果であっても、しばしば社会に流布してしまうことを問題として取りあげている。
テレビゲームをやりすぎると脳に悪影響があるという言説が一世を風靡したことがある。出典は2002年に出版された、森昭雄の『ゲーム脳の恐怖』で、著者が「脳科学者」であったために、「科学的根拠」をもった成果として注目された。しかし、脳波の測定の仕方や解釈に大きな誤りがあることがその後指摘され、現在では科学的根拠はほとんどないとされている。(200ページ)

彼はDSの「脳トレ」も取りあげているが、「正統科学」対「疑似科学」という二項対立図式では問題が解決しないとして、「ネタ科学」という概念の導入を提案している。科学を単に世間話レベルでの「ネタ」として使っている場合は問題にすべきでなく、それが真実と受け取られないように注意することが科学者の責務だとしている。

正しい意見だと思うが、問題は誰がいつどのように正しい情報を発信して行くのか、その仕組みを作ることだろう。

昨日のブログでも医療事故調査会のことを取り上げたが、量的には某学会に対する批判の方が多くなってしまった。今日は医療事故調査会のことを主に取りあげたい。

厚労省が最終案をオープンにしたので、医療ガバナンス学会のメールマガジン「MRIC」では立て続けに最終案に関する投稿が配信されている(http://medg.jp/)。
2013年5月23日 秋田労災病院 中澤堅次「Vol.120 医療事故調取りまとめ案の問題点」「Vol.121 事故調最終案について考える」
2013年5月27日 弁護士 井上清成「Vol.126 医療法改正反対―WHOガイドラインに反する厚労省案」
2013年5月28日 全国医師連盟代表理事 中島恒夫「Vol.128 本来あるべき事故調査とは?-刑法、刑事訴訟法改正から逃げてはならない-」

ある一つの立場を明確にとっているメールマガジンであると判断されるので、厚労省案に対する批判的な内容が多い。しかし、私も厚労省案には納得が行かないので、ここで理由を述べる。

医療事故があった場合、それを客観的に検証する組織は必要である。それは第三者機関であるべきだが、医療者、特に医師を中心にした機関であることが望ましい。医療とは何であるかを知り、医療の不確実性を理解している者でなければ、正しい分析はできない。医療裁判の判決が医療の専門家から見ると誤った解釈に基づいていると判断される例があることは、法律家に任せたのではいけないことが分かる。

また、その機関が責任追及をするものであってはならず、真相を解明し、改善点を探し、今後の医療に生かす働きをするものでなければならない。このことは航空機事故調査委員会の運用で、その重要性が明らかになっていることだ。責任追及の場では真実は出てこない。航空機事故調査委員会の資料は、外国では裁判に使ってはならないことになっているほどだ。

以上のことは、医療に携わる者、医療安全に関わる者なら、皆が知っていることだと思う。それならば、厚労省の医系技官たちは知っているだろう。医系技官以外の役人たちも、医療分野を管轄としているのだから、知っていると考えられる。それでは、なぜ厚労省案はそうなっていないのか。昨日のブログに書いたように、そこに厚労省の作為、意図を見るのである。

その意図とは、医師の立場を弱め、自分たちの支配下に置きたいと言う意図である。私はその意図を問答無用で批判する者ではない。彼らがそのように考える理由も推察できる。私が望んでいるのは、オープンな議論である。厚労省の態度は、言わばパターナリズムである。それでは相手は進歩して行かない。議論は沸騰するであろうから、上手な舵取りが必要だろう。しかし、そのような議論により、問題意識を共有することで、医師や医療の質が本当の意味で高まって行くのだと考える。

日本人は会議が下手だと思う。議論が下手だと言った方が良いのかも知れない。仕事柄、会議に出ることが多いが、役所が絡む会議は事前に台本があったり、事前打ち合わせで落としどころが決まっていたりする。話し合いは熱心に行われているが、それは会議の場ではない。知った顔どうしが、プライベートに、あるいは部内会で話し合う。利害の対立が少ない集団だから話がまとまりやすい。その結果、妥当な案が出てくれば、会議に提出する。会議は時間切れで充分な討議ができなかったり、反対派を排除したりしていて、ほぼ原案通り可決する。

国会での論議を聞いていても、質問者は相手がはぐらかしているにも拘らず「時間が無いので、次の質問に移ります」とあっさり諦めてしまう。もっとも、食い下がったところで、答弁者の方はまともに答える気がないのだから、国会中継での出来を気にして、次のパフォーマンスに移った方が点が稼げるのかも知れない。国会議員たちは意見を戦わせようと思っていない。いや、意見を戦わせるといった風土が無いのだろう。喧嘩か押し問答になってしまい、妥協や止揚(反対意見を統合して、さらに高い意見を創出すること)には至らないのだろう。

提案者が、本当の提案理由を述べないので、提案者の意図を探ることになる。実際に、提出された案には裏の目的が見え隠れしていることが多い。大事な話であればきちんと議論すべきだろう。しかし議論が下手なので議論にしたくない。そこで虚偽の提案理由を述べることになる。

先日、私の所属する学会の代議員会があった。学会の専門医制度を変更するというので、案が提示された。今まで指導医が1人いれば専門医の研修施設になれたのだが、案では指導医が4人必要と変更になっていた。何故だろう。現行の研修施設の多くが、指定を返上しなければならなくなる。基準を満たせるのは、ほぼ大学病院に限られるが、地方の大学病院では基準を満たせないところも出てきそうだ。

この場合、裏の意図は明白である。新臨床研修制度の施行に伴い、大学医局に入局する研修医が減少した。大学病院は、関連病院や提携している研究施設に送り出す医局員が欠乏し、運営は大変厳しくなっている。一般の病院を研修施設の認定から外すことにより、専門研修を受けたい医師が大学医局に入局するように誘導するための変更なのだ。

しかし、幹部はそのようなことを一切口にしない。指導医を4人とした理由を尋ねると、ひとつの科の中にも複数の下位専門分野(サブスペシャルティ)があるので、それぞれに1名とすれば最低でも4名必要と考えた、と答弁した。しかし、その4人が異なる下位専門分野を指導できることをどのように担保するのか、1人で2分野はなぜいけないのかといった説明は無い。明らかに誠意を欠いた提案で、誠意を欠いた会議運営であった。だが、何より問題だったのは、代議員からの質問の無さであろう。200人ほどの代議員がいたのではないかと思うが、このような大問題にも拘らず、質問は私一人であった。想定問答集をなぞるのもばかばかしいので、早々に質問を切り上げたが、代議員たちは、先に結論ありきの会議であることを当然のこととして理解していたのだろう。

勿論、そのようなことは私も理解していた。ではなぜ質問したのか。これもやはり発言の意図の問題だ。黙っているほど大人になれなかったのだろう。現在、大学に行きたくないので市中病院で研修を受ける若手医師がかなり多い。学会の制度変更は、そのような医師を遠ざける瀬策だと考える。「専門医を取りたいので(いやいや)大学医局に入局する」ではなく「専門医が取れないなら他の科に行く」という選択をする医師が少なからず出て、逆に科の衰退に繋がるのではないかと危惧するのである。

厚労省の医療事故調査会の最終案がオープンになり、医療側からは盛んに批判が寄せられている。この問題は何年にもわたって議論され、それなりに議論の蓄積があるはずなのだが、厚労省案は昔から変わっていない。ここにも裏の意図を感ずる。その意図とは、医師の自律を認めず、厚労省の下に従属させようという意図だ。このような事故調が制度化されると、外科系からの医師流失に拍車をかけ、医療崩壊が更に進むのではないかと危惧する意見が(医療側には)多い。

学会の専門医にしろ、厚労省の事故調にしろ、私に直接関係する問題ではなく、次世代の医師、ひいては未来の国民に関することだ。知らん顔をしていても、別に困りもしない。しかし、そのような問題こそ、現在責任ある立場にいるものたちがきちんと意見を出し合って話し合うべきことだろう。人を騙して想いを遂げるような振る舞いには、嫌悪を通り越して哀しさを感じる。そして将来の人々には申し訳なさを覚える。

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