阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2013年03月

新原豊『生命は「与える」と強くなる』(サンマーク出版)を読了した。著者はカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の教授で、癌専門医であるが、癌の臨床に携わるだけではなく、鎌状赤血球症という遺伝性疾患の治療薬を研究している。治療薬の開発のために会社を興し、そのCEOも務めているとのことだ。新原はキリスト教徒で、彼が篤い信仰を持っているのは文章の隅々から感じられるが、本書の内容としては可能な限り宗教色を排し、科学的、哲学的な内容になっている。

新原は全てのものに意味があるのではないかと言う。病気にさえ意味があると言う。
私たちはふだん、病気や病気の苦しみをマイナスの意味でしかとらえていません。健康はありがたく、価値があるもの、失いたくないもの。だから、病気は無価値で、避けるべきもの、憎むべきもの、というようにです。
しかしいま述べた、病気という逆境に負けることなく、むしろ、その負の境遇の中にあるからこそ、ささやかだけれどもたしかな生きる意味と価値、ときに喜びさえ見いだそうとする人の例に触れると、実は病苦というのは人をやさしく、美しく、強くする磨き砂の役割を果たしていることに気づかされます。(26ページから27ページ)

もちろん医師にとって、病気は治すべきもの、痛みは取り除くべきものであることが第一義ですが、その医療行為を通じて、治す側の心や「人間」も養われます。奉仕は仕える側の人格も陶冶するのです。
これは医師に限ったことではありません。子どもが生まれる、か弱くて、未熟で、あぶなっかしい生命である子どもを、一人前に育てることを通じて、親の人間性もまた成長していきます。
病気を得た人間にとっても、同じことがいえるのではないでしょうか。たとえば、私と同業の医師の中に、自分ががんになってはじめて、患者さんにやさしく接することができたという人がいます。(100ページ)

しかし、彼は臨床医として、精神的あるいは肉体的に苦しみ、死にゆく人間を数多く診ている。だから能天気に「病気に意味がある」と言っているわけではない。
[鎌形赤血球症患者の痛みは筆舌に尽くし難い。]そのような現実を前にして。「病気にも意味がある」という言葉がはたして有効なのか。そもそも、いま痛みに悶え苦しんでいる患者さんに向かって、「その苦しみにも価値がありますよ」などと軽々しく口に出せるのか。私にその自信はありません。けれども、その事実を十分意認めたうえで、なお、病苦が人生の土壌に栄養を与え、ときに、希望の種さえ蒔いてくれる肥料となる場合も、ありうるように思えるのです。(95ページ)

私は彼の考えに基本的に賛成である。実は先日の癌患者の会でも、偶然に似たようなことを言った。病気のことだけでなく、子育てに言及したのも同じである。本書を読みはじめる前のことであったから、彼の意見と私の見方は非常に良く一致してると言って良いだろう。

しかし、私の言い方は少し違った。「元気な医者はダメですよね。一つぐらい病気を持っている方が良い。」と、ちょっと茶化した言い方をした(かなりウケた)。この点、私は素直になれないのだ。答えは手の内にある。それが正解であることも知っているし、他に正解が無さそうなことも感づいている。それでも、その答えが与えられたものであれば、納得が行かないのだ。いや、納得が行かないというより、気恥ずかしくてそれが答えであると言うことができない。その答えに従うことがずるいような気さえしてしまう。これが、私の大人になりきれない部分であり、なかなか成長できない原因であろうとも思うのだが、新原のように素直に「病気に意味がある」とは気恥ずかしくて言えないのだ。私が言えるのは「苦労をすると人間は成長する」までで、それと紙一重の「だから苦労に意味がある」には届かないのだ。自分でつかんだ答えなら納得して言える。答えを自分でつかむまでは、その周りをためらいがちにうろつき回るしかない。

そんな自分を見て思うことが二つある。一つは、先日も述べたように、人の精神的発達においても、ある段階に至るには、それに先行する全ての段階を経なければならないのではないかということだ。少しでも近道をさせようと結論を教えても全く受け入れられないというのは、子供の教育シーンで常に経験することである。答えを教えるのではなく、答えに至る道を教えるのでなければならない。「通過儀礼」や、痛みや苦痛を伴う修行は、答えを教えず、答えをつかませる方法なのではないか。答えを教えることはできない(知識として教えても実践させることはできない)ので、自分で答えを得る方法として、通過儀礼や修行法を創案したのではないかと思うのである。

もし、それが正しいなら、同じことが学校教育にも言えるはずだ。学校教育の中心が「正しいこと(正解)を教える」ことにあるとする捉え方は変えたほうが良いだろう。学校の本当の意味は、学習以外にあるのかもしれない。教育の成果の尺度を「どれだけ正しいことを覚えたか」に置くのは間違っていることになる。

もう一つ考えるのは、真理に至った先哲はその真理を他に伝えるために非常な苦労をしたのだろうということだ。いくら言葉で真理を説明しても、分かるはずが無い。そもそも天才の頭でやっと理解できたことは、凡人の頭には入りきらないだろう。学者であれば、本を書いて、内容を理解できる人が後世に現れるのを待てば良いかもしれない。しかし宗教家はそうはいかない。衆生を救う方法が見つかったというのに、「いずれ分かってくれる人が出る」と悠長に構えていることはできないだろう。宗教家にとっては真理を伝えることより、人々を真理に従って導くことの方が重要だろう。そこで色々な教義が編み出されたのだと思う。たとえば、ある言葉(お経、呪文)を繰り返すことで良い効果があるという教えが良くある。実際に必要なのは、その言葉ではなくて、無心に何かに集中するということであったり、良いことが起こると信じることであるかのしれないが、直接それを実践させようとしてもうまく行きそうにないので、「言葉を繰り返す」という行為を媒介として使用したのかもしれない。座禅も同様で、座禅は方法論であり、座禅をすることで答えに早く確実に到達できると考えられたのだろう。

中学3年生の時、倫理社会の授業でシュヴェーグラー『西洋哲学史』(岩波文庫)を読まされた。まさに読まされたと言う言葉が相応しい。嫌いでしかたなく、本の内容も教師の授業も「訳の分からないことを言っている」とバカにしていた。訳が分からないのは自分の理解力が足りないからで、それをもって相手をバカにするとは、本当にお粗末な思考過程である。その頃の教師の年齢となった今、中学3年生に『西洋哲学史』を講ずるのはやはり時期尚早ではないかと思うと同時に、何より、深い思考の結果として得られた「成果」のみを伝えても、それを少年に理解させることは困難であろうと思う。

加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社)から、日本は太平洋戦争の「落としどころ」をどう考えていたのかという加藤の説明を紹介したい。

太平洋戦争での日本と米国の国力の差は圧倒的なものであったが、当時の日本がそれを知らなかったわけがない。今から見れば自殺行為とも捉えられかねない日米開戦であるが、日本政府が何の計算もなく戦争に突き進むはずがない。当時、それなりの戦略と作戦があったはずだ。

日中戦争を戦っていた日本が、なぜ第二次世界大戦に突き進んだのか、日本の想定した「落とし所」は何だったのか、という学生からの質問(332ページ)に与えた加藤の説明を紹介しつつ、私の感想を述べたい。

まず、日米の国力差は当時の日本で良く知られていた。その「絶対的な差を、日本の当局はとくに国民に隠そうとしなかった。むしろ、物的な国力の差を克服するのが大和魂なのだということで、精神力を強調するために国力の差異を強調すらしていました。国民をまとめるには、危機を煽動するほうが近道だったのでしょう。(334ページ)」

この絶対的な国力差を理解しながらも、開戦を積極的に支持していた層がいた。国民の大多数は、現在戦っている日中戦争は弱いものいじめのようだったが、強者である米英と闘うことは日本の大義にかなっていると感じたようだ。私は、非常に情緒的なレベルで動いていると感じる。
これほど国力の差がある国と戦争をして、日本は[中略]アメリカのワシントン、あるいはイギリスのロンドンまで攻めてゆくつもりがあったのかと問われれば、それはなんぼ無謀な陸軍でも考えていなかったといわざるをえない。[中略]とにかく相手国の国民に戦争継続を嫌だと思わせる。このような方法によって戦争終結に持ち込めると考えていた。冷静な判断というよりは希望的観測だったわけですが。(338ページ)

つまり軍部は、米英蘭(オランダ)を東アジアから追い出すことを狙っており、それを落とし所としようと考えていたようだ。軍部が1941年9月6日の御前会議のために用意した文書から以下の考えが分かる。
日本は他のアジア諸国と軍事的、経済的、政治的に緊密な関係を樹立しようとしたのに米英蘭は日本の計画に反対している。日本がこの時期にあって後退すれば、アメリカの軍事的地位は時間の経過とともに優位となり、日本の石油の備蓄量は日ごとに減ってゆく。この時期、開戦を一年、二年と延ばすのは、かえって、歴史が教えているように不利になるだけだ。(340ページ)

つまり、軍部の考えは、このまま日中戦争で消耗してゆけば(国力が無いが故に)さらに不利になるから、早期に開戦しようというものだ。東条英機が首相になると、戦争の終結法を天皇に説明するための資料を軍部に作らせた。しかし、この計画書は、他力本願の希望的観測を幾重にも積み重ねたものであった。また、1941年10月19日付けの軍の文書では、「戦いつつ自己の力を培養すること可能」(戦争しながらでも国力を向上してゆける)としていたが、これもまた非常に甘い予想を積み重ねた机上の空論で、実現不可能な予想であった。私から言わせれば、きちんとした分析も、停戦に至る戦略も無いまま、取り敢えず戦争を始めようという態度である。

中国が頑強に抵抗を続ける中、日本はフランスからの対中補給を断つことなどを目的として、1940年9月に北部仏印(仏領インドシナ)に進駐し、1941年6月には南部仏印に進駐する。その背景には、中国が米英仏に援助を強力に働きかけていたこと、ヨーロッパでドイツが優勢であったため、劣勢の国々の植民地を日本が入手できると踏んだことなどがある。

実は南部仏印進駐の決定に際しては、北進論を唱える松岡外相や参謀本部を牽制するために、対ソ開戦に消極的な陸海軍が南進に言及したという経緯がある。陸海軍は、仏領に進駐しても米国の権益を侵すわけではないから米国は強い報復措置には出ないだろうと考えていたのだ。ところが米国は7月25日に在米日本資産の凍結、8月1日には石油の対日全面禁輸を実行してきた。これは、当時ドイツに侵攻されていたソ連を、1942年の春まで持ちこたえさせたいと考えていた米国が、日本に対して強く出ることでソ連の心配を払拭し、独ソ戦争に集中させる目的があったと加藤は述べる。

このままでは日本は益々劣勢になると考えた軍部は、米国奇襲を発議した。実は軍部は日中戦争の戦費をこっそりと蓄えて対米戦争の準備をしていたのである。加藤は、日本には速戦即決以外のプランはあり得なかったのではないかと述べる。当初英国のみがドイツを相手に戦っていたが、その後ソ連、米国、中国が参戦することにより、連合軍側は圧倒的に有利となった。米大統領のローズヴェルトが無条件降伏にこだわったこともあり、日本は和平の機会を逸しつつ敗戦へと邁進するのだ。

本書の最後の方に出てくる、敗戦が間近いという情報が国民の中に流れていたというエピソードは興味深かった。
しかし、国民もさるもの、民の部分では、なんらかの情報が流れていたと感じさせるのは「株価」の話ですね。

―えっ、株価って、戦時中に株式市場が開いていたんですか?

そう、ギョッとするでしょう。開いていたんですね。[中略]45年2月から、軍需工業関連ではないもの、これは当時の言葉で民需といったのですが、
民需関連株が上がります。具体的には、布を機械で織る紡績関連の株などが上がりだしたというのですね。戦時中では上がるはずはなかった。こうした株に値がつきだす、つまり、そのような株の買い手が増えてくるということです。(388ページ)

そのようなしたたかな国民が増えれば、国が暴走することも少なくなるのではないか。

福岡伸一は、彼の著書『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)に中で「ノックアウト実験」について述べている。あるタンパク質の生体内での役割を調べるために、そのタンパク質を作る遺伝子を破壊し、生物にどのような影響を生じるかを調べることで、そのタンパク質の役割を調べるという実験である。
このように遺伝子を人為的に破壊して、その波及効果を調べる方法を、「ノックアウト実験」という。遺伝子を叩き潰す(ノックアウト)という、アメリカ人ならではの乱暴な言い回しである。(243ページ)

彼の属した研究グループはGP2と呼ばれるタンパク質が消化酵素の分泌機構に非常に重要な役割を果たしていると判断し、それを証明するためにGP2に相当する遺伝子が欠損したマウスを作成することに成功した。しかし、そのマウスの細胞を電子顕微鏡で調べても、全く正常であった。
私たちは混乱した。そして落胆した。GP2タンパク質が一切存在しなくとも、マウスには何の不都合も発生しない。細胞内部にはまったく正常な形状の分泌顆粒が平然と存在している。GP2が、分泌顆粒膜の組織化に重大かつ必須の役割を果たしているという私たちの仮説は見事なまでに粉砕されてしまった。(255ページ)

なぜか。福岡は動的平衡という言葉を用いて、この現象こそが生命の本質を表すものだと述べている。
時間軸のある一点で、作り出されるはずのピースが作り出されず、その結果、形の相補性が成立しなければ、折り紙はそこで折りたたまれるのを避け、すこしだけずらした線で折り目をつけて次の形を求めていく。そしてできたものは予定とは異なるものの、全体としてバランスを保った平衡状態をもたらす。[中略]
機械には時間がない。原理的にはどの部分からでも作ることができ、完成した後からでも部品を抜き取ったり、交換することができる。そこには二度とやり直すことのできない一回性というものがない。機械の内部には、折りたたまれて開くことのできない時間というものがない。
生物には時間がある。その内部には常に不可逆的な時間の流れがあり、その流れに沿って折りたたまれ、一度、折りたたんだら二度と解くことのできないものとして生物はある。生命とはそのようなものかと問われれば、そう答えることができる。(270ページから271ページ)

「個体発生は系統発生を繰り返す」という有名な言葉がある。たとえばヒトの胎児は、初めからヒトの形をしているのではない。単細胞生物からプランクトンのような形になり、魚のような形になり、手足が生えて尾のある四足獣のような形になってから、ヒトの形になる。ある時期の胎児を比べると、ネコでもブタでもヒトでも、ほとんど同じだ。心臓は初めから心臓の形をして発生してくるのではなく、鰓の周囲の血管として発生し、複数の血管が結合し、不要な血管は消失し、結合した血管はねじれ、太くなりつつ胸部に移動し、最終的に心臓になる。全ての臓器について言えることなのだが、ある臓器ができるには、前の段階となる臓器ができて、そこから新しい臓器が変化して行くことが必要で、場合によっては前の臓器が消滅することが必要なのである。ヒトが単細胞生物から今の形に進化した軌跡を辿らずに現在の形が直接生じることはない。だからiPS細胞から臓器を作り出すと言っても、その臓器だけができてくることはない。水晶体を作るには眼を作らねばならず、眼を作るには皮膚と脳が必要である。

ここまでは、教科書などにも載っている知見である。ここからが私の想像になるが、実は精神的にも同じである可能性を考えた。人間はある答えを得るのに、必ず時間をかけ、紆余曲折を経ないと得られないのではないかと思うのである。これは、私の子供たちを見ていてもそう思えるし、何より自分自身を観察していてそう思う。また、若いときに読んで面白くなかった小説が、中年以降に読んだらとても面白かったという話を複数聞いた。それも、人間がある境地に達するのに、必ず時間がかかることの証ではないか。それならば、いくら真理であっても、若者には結果として教えてもダメだということになる。自分でその結果を手に入れるに至るような道を行かせる必要がある。

どの文明にも各種の「通過儀礼」があるが、先人はそのことを知っていて、答えを教える代わりに「自分で答えを見つけるための儀式」として通過儀礼を創り出したのかもしれないと考えるのだ。

通過儀礼と言えば、1969年にネビュラ賞を受賞したアレクセイ・パンシンのSF小説『Rite of Passage』の題名は通過儀礼という意味だが、日本語訳は『成長の儀式』 (1978年出版、ハヤカワ文庫、アレクセイ・パンシン著、深町真理子訳)となっている。当時の日本は通過儀礼という人類学用語を知る人が少なかったが、当時の米国では一般に知られる語だったのだろうか。

徳永進『こんなときどうする?―臨床のなかの問い』(岩波書店)を読了した。

徳永は鳥取赤十字病院で内科医を勤めた後、2001年より19床のホスピスケアのある「野の花診療所」を開業し、癌の看取りなどを行っている(http://homepage3.nifty.com/nonohana/)。徳永の本は、随分以前に『ニセ医者からの出発』(1993年)や『死の中の笑み』(1982年)を読んでおり、とても面白い人だと思っていた。しかし、最近は彼の本を目にすることがなかった。今回、ホームページを見たら、1年に1冊以上出版している時期もあるようだ。

徳永の特長は非常に謙虚なことである。自分の医療に迷いや過ちがあることを認め、問いと「難渋」の中に医療の本質があると考えている。徳永が提示する症例は、いずれも深く考えさせられる症例ばかりで、読んで考えると、それだけ自分の考えの厚みが増したように感じる。徳永は決して断定的な結論を出さず、悩みは悩みとして、迷いは迷いとして提示する。その姿勢に私は好感を持つ。

私の知り合いで、咽頭癌の治癒後に舌癌、歯肉癌と発症し、自宅で最後を迎えた人がいる(個人が特定しにくいように詳細は変えてある)。在宅で奥様と娘さんに介護され、看取られた。本人の希望どおりの最後で、最善の経過ではないかと思ったのだが、奥様は精神的に追いつめられ、心にはトラウマが残ったようだ。なぜだろうと色々考えたのだが、現在の結論は、彼が怒りをもって終末期を過ごしたからということだ。

彼は自分のことを「極端な臆病者」と言っていたが、注射の類いは大嫌いな人だった。商社マンで多量飲酒、多量喫煙の人で、咽頭癌に罹患した時点で酒とタバコは止めたが、咽頭癌の治療後には酒を再びたしなんでいた。歯肉癌を発症し、その治療が困難と分かった時点で「これは自分が今までして来たことの結果だから仕方がないです」と言って、在宅療養に切り替えたが、経口摂取が困難にも拘らず点滴を拒否して、経口摂取にこだわった。コップから一口の水を飲むにも何分もかかる状態で、彼がコップに手を伸ばすたびに奥様は気を揉み、息を詰めて見守っていたようである。当初、彼の態度は首尾一貫し立派であると思っていた。今でも彼らしく筋を通したと一目置くが、残された家族が見送った満足を得られるような逝き方ができなかったのかとも思う。おそらく彼は過去の自分に怒りを感じ、また現在の自分も受け入れられず、怒りを抱えたまま、ある意味で意地になって、最後の時を送ったのではないかと想像する。その怒りは、言葉にされなかったが、家族にはしっかりと伝わり、家族を苦しめたのではないだろうか。

必ずしも在宅が良いわけではない。必ずしも文句を言わないのが良いわけでもない。以下の徳永の言葉は医療者(徳永自身?)に向けたものだが、誰にでも当てはまるものだと思う。
自分の哲学というものを持っている人があるとする。その哲学を臨床で貫こうとすると矛盾が生まれるような気がする。哲学を臨床に当てはめようとすると、臨床がはみだしそうになる。逆ならどうだろうか。臨床に生じていることが、一つの哲学を作っていく。確かに、先に哲学は存在しないような気がする。先に在るのは臨床。臨床の蒸気が哲学を作る。きっとそうだと思う。いや、でも、そうとも言い切れない。臨床に立つ前に、まず、いくつかの哲学がないと臨床に立てまい。臨床以前に、まず何らかの哲学が在る。それは認めないといけないだろう。それはなんだろう。(190ページ)

また、徳永はなだいなだの言葉を引用して、こうも言う。
精神科医のなだいなださんは『人間、とりあえず主義』(筑摩書房)という本を出版されている。読むと面白い。そのなださんが、「必ずしもそうとは言えない」という考え方を教えて下さる。物事を一つに断裁する時の警告となる哲学だと思う。
男は強い、女は弱い、必ずしもそうとは言えない。先生は偉い、生徒は愚か、必ずしもそうとは言えない。脳死は死だ、必ずしもそうとは言えない。臓器移植は近代医療の恩恵だから、広く押し進めるのが正しい、必ずしもそうとは言えない。がんは告知すべきだ、必ずしもそうとは言えない。がんは隠すべきだ、必ずしもそうとは言えない。死を迎える時、ホスピスが一番、必ずしもそうとは言えない。家で死を迎えるのが一番、必ずしもそうとは言えない。
「必ずしもそうとは言えない」という言葉を心に用意しておくことが、臨床を渡るのには欠かせない、と思う。臨床は「必ずしもそうとは言えない」だらけだ。(210ページから211ページ)

しかし、この本を読んでいてふと思ったのは、癌の末期はまだ良いということだ。癌はやはり死に至る病である。さほど長くない時間が経過すると、状況が一変し、多くの問題が片付いて行く。ところが、私が関わっているような重症心身障害児や、徳永も関わっているALSでは、経過が非常に長い。いつまで続くとも知れないような長い道が続く。特に子供たちは親よりも長く生きる。親は問題を残したまま先に逝かなければならない。重症心身障害者施設に入所している利用者たちを見ると、思わずそんなことを考えてしまうことがある。

転勤が決まった。新しい病院に移り、ほとんど知っている職員がいない環境で、新しく与えられる仕事をすることになる。こう言うと、「解雇されるのか」とか「定年か」などと心配してくれる人がいるが、そうではない。被雇用者であれば、命令により異動しなければならないことがある。

私は自分の本能を大切にしている。普通の動物は本能に従って食べ、間違ったものを食べないのが普通だ。食べ過ぎることはなく(そんなに食べ物が豊富でないのが通常の状態だが)、好きなものばかり食べて体を壊すことも無い。実験室でマウスを飼うとき、通常は一種類の餌で必要な栄養素を全て含むような餌を与える。しかし、実験的に、必要な栄養素を複数種類の餌に分けて与えると、マウスは複数の餌を各々少しずつ食べる。食べた量を測って含まれる栄養素を調べてみると、丁度自分に必要な量だけの栄養素が摂れるように餌を組み合わせて食べていると、大学時代に習った。

この能力は人間にも残っていると感じる。しばらく魚を食べていないと魚が食べたくなったり、1日に一度は野菜を食べないと気が済まなかったりするのは、この本能ではないか。実際、食べたいものを食べるのが体に良いと主張する人は多い。私は基本的に食べたいものを食べる主義だ。ただ、自分の体が本当に食べたいのは何かを、いつも体に聞くようにしている。調味料などで、感覚は容易に騙されるからだ。たとえば、甘いもので毒を持つものは自然界に無い。だから甘いものは安全で、人は甘いものが本能的に好きだ。しかし、体に悪いものに甘い味を付けられるようになってしまったので、騙されて体に悪いものを摂取したりする。化学調味料で味を変えられて、本来の成分が分からなくなっていることもある。

先日、Science Fridayというポッドキャストの番組を聞いていたら、ベビーフードに砂糖を入れる話をしていた。砂糖を入れると赤ん坊はベビーフードを良く食べるようになるので、食品会社は砂糖を入れたがる。しかし、そうすると偏食や過食の問題が出てくるので、好ましくないと言っていた。

また、ヒトは本能的に縄張りを作るようだ。縄張りを持つ動物が自分の縄張りから出たり、他人の縄張りに入ると弱くなるのも本能だ。転勤により、自分の縄張りから出ると、心理的に弱くなる。今から10年以上前、今の病院に転勤して来たとき、前からいる部下に対して遠慮のようなものを感じ、非常に運営がしにくかった。その部下は一部での評判が悪く、仕事もあまりしない人間だったので、注意し、指導するのが私の役目だったのだが、彼は非常に強く反発して来た。私は実際に彼の縄張りの中に入って闘っているように感じた。新しい職場では、どんな人がどのような縄張りを持っているのだろうか。

それにしても、職場と言う「場」には特別な力があるのかもしれない。今読んでいる本に、癌の末期になってホスピスに入院した患者が、外出して自分の職場を訪問する話が書いてあった。患者は職場に行くと元気を取り戻すと言う。
職場は力である。なんの力だろう。日常を思い出させる力、自分のほこりを確認させる力。自分の人生を肯定してくれる力、なんの力だろう。体に生じる痛み、苦しい症状を忘れさせる力。孤独、寂しさ、悲しさを一時であれ忘れさせる力。絶望とだけ向き合わず、絶望を忘れさせる力、と言えるだろうか。一つの薬だ。(徳永進『こんなときどうする?』112ページ)

人が愛着を持って過ごした場所は、その人の「縄張り」になっているのだろう。そして人は「縄張り」にいるだけで元気になり強くなるのだと思う。だからこそ在宅療養が大切なのだろうし、疾患が進行しても職場に通勤したがる人がいるのだろう。おそらく私もしばらくの間、元の職場を訪問すると元気になるのだろう。そして新しい職場には、1年ほどかけて新しい縄張りを作り上げるのだろうと思う。

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