阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2013年02月

会田薫子は東京大学大学院人文社会系研究科上廣死生学・応用倫理講座の特任准教授であり、専門領域は、医療倫理学、死生学、医療社会学で、終末期医療、延命医療、高齢者医療、脳死、臓器移植といったテーマに取り組んでいる。先日「延命医療と臨床現場―意思決定をどう支えるか」という講演を聞く機会があった。
会田は「延命措置」という言葉を使わない。「措置」とは、行われる医療行為が治療ではないという医学的判断に基づいて選択される語であるとし、会田は、その医療行為が患者の生命を延ばすもので、家族のケアになる可能性のあるものであれば「治療」と位置づけたいと言う。

まず会田は1997年1月27日付けの新聞記事を示した。その記事は、認知症末期の患者が経口摂取できなくなったとき、点滴や栄養チューブの挿入せずにケアをして看取っていた施設を、「栄養チューブ使わず死亡」という見出しのもとに消極的安楽死を実行していたと糾弾する記事であった。高々15年前の記事であるが、終末期医療に対する考えが大きく変わってきたことを実感させる記事であった。次に会田は中村仁一『大往生するなら…』や石飛幸三『平穏死のすすめ』を紹介し、現在のトレンドとして延命治療を避ける方向に社会が大きく動いていることを示した。

患者の延命治療をどうするかは、患者本人、家族、医療者が充分に話し合いを重ねて決めて行くものだが、そのベースにあるのはインフォームドコンセント(informed consent「説明と同意」、以下ICと省略)である。ICは米国からもたらされたものだが、これは公民権運動、女性解放運動、消費者運動と続く、支配・抑圧からの解放要求の流れの中で生まれたものだと言う。1950年代の米国では、医師が強く患者が弱い父権主義の時代であり、患者の考えは医師が推定して、全ての決定を医師が行っていた。その後、患者の力が強い「消費者主義」に移行し、目的設定は患者が行い、医師は技術的な相談役に徹するという時代を経過したが、現在では両者が対等な力を持ち、共同で作業する「相互参加型」になっているとのことだ。

ICは「説明と同意」と翻訳されることからも分かるように、医療者からの説明に対して、患者側からは医療者のプランへの同意が与えられる。会田は、彼女の教室の清水が発表した、ICは相互的に行われるべきだという「情報共有-合意モデルによる意思決定プロセス」を紹介したが、非常に共感を覚えた。そのモデルとは「医療ケアチームは患者に対して生物学的な説明を行い、最善についての一般的判断を示す。それに対して患者(家族)は物語的な説明として、思想信条、価値観、人生観、死生観、人生計画などを説明する。両者がお互いの情報を共有した上で最善についての個別化した判断で合意するのが、真のICの形成ではないか」という論である。その通りだと思うが、consent(同意)という言葉よりagreement(合意)という言葉に変えたほうが良いのではないだろうか。

終末期の末梢点滴はどういう意味を持つのだろう。会田らが2010年に行った点滴の目的の調査では、「家族の心理的負担軽減」が69%、「スタッフの心理的負担軽減」が57%、「医学的に必要」が38%だったそうだ。会田は「何もせずに看取るのは、看取るほうの心が痛むから」あるいは「せめて点滴ぐらいしないと、親戚が見たら何を言われるか分からない」といった、「患者家族とスタッフの心理的負担の軽減」が目的で行われ、「点滴ボトルのさがった風景が、家族と医療・介護スタッフの情緒をケア」するのだと言い切る。しかし、この「日本的な看取り」に対して、患者本人の利益と不利益を真剣に考えるときであると提言する。

生命を延長するのは延長することで患者にとって良いことがあるからであるべきだと会田は言う。人は生命を土台として、その上で人生=物語(ナラティブ)を生きるというのが彼女の考え方だ。生命が続いていても、人生を織りなし、物語を紡ぐことができないのであれば、それは本当の生とは言えないということだ。本当の生を与えるのではない延命治療は、倫理的に避けるべきという結論に至る。

病院では、高齢者の死より、子供の死のほうが考えなければならないことが多い。医療の発展により子供が死ぬことが非常に少なくなったので、子供の死に関しては親の心理的動揺も大きい。親の精神的ケアや、スピリチュアルなケアが非常に重要になる。
また、親と医療者が対立する場合もある。医学的に見て救命すれば将来自立できるだろうと判断される障害児に対して、将来の行く末を悲観したり、療育の負担を恐れて親が治療を拒否することは稀ではない。医療ネグレクトにあたると判断される場合の医療者のとるべき行動は、その結果が、将来にわたって患者・家族の生活に影響するため、簡単には決められないことが多い(たとえば、治療しても、行き場の無い障害児を生み出してしまうこともある)。また、医学的に見て延命は無意味と判断される児の治療を強く望む親もいる。親が子供の運命を受け入れられないがために、延命により結果的に子供を虐待することになっている事例もある。私の経験では、母親が育児ノイローゼで子供の首を絞め、子供は脳死に近い状態になったが、父親はそれを受け入れられず、母親が出所したらまた3人で暮らすのだと、子供の延命以外は考えられないという事例があった。

子は親のものではない。歴史的にも、社会が子供の人権を制度的に擁護してきたのだ。医療者が親の意向から独立して治療方針を決定することが可能な社会が望ましいのではないだろうか。医療者がそこまでの責任を負うことについて、子供の将来を考えれば多くの異論が出ることと思うが、選択肢として考える必要があると思う。

最後にフロアからの質問に答える形で、会田が現行の福祉は子供に薄く、老年に非常に厚いが、今の老年者はそれを意識していないと指摘したことに、強い共感を覚えた。投票権の無い人々は、この社会では徹底して弱い。

大道寺将司『棺一基―大道寺将司全句集』(太田出版)を読了した。大道寺将司は東京拘置所に「確定死刑囚」として拘禁中である。1974年8月30日に千代田区丸の内で発生した、東アジア反日武装戦線「狼」による「三菱重工爆破事件」の犯人として彼は逮捕・起訴され、リーダー格であったとして1987年3月24日に最高裁で死刑が確定している。

序文と跋文を書いた辺見庸は『もの食う人びと』(現在角川文庫収載)などの著作で知られる作家である。辺見は2004年に脳出血で倒れ、失語症と右半身不随の後遺症を得たが、その後復活し、最近は詩を多く発表している。私は、出張先のホテルでたまたまつけたテレビで、辺見が大道寺の句集を出版するまでを取りあげたドキュメンタリーを見て、この句集を入手した。

大道寺は死者8人、負傷者376人を出した「無差別爆弾テロ」である三菱重工爆破事件の首謀者の一人で、確定死刑囚である。彼の句集を前にして、私は、この事実がどういう意味を持つのかを客観的に考えることができない。私は、自分が被害者やその家族でないから、彼の句をこだわりなく読めるのではないかという気もする。私は句集を客観的に見ているのではなく、あくまでも事件と関係の薄い人間として、主観的に見ているのではないか、と思うのである。もっと端的に言うなら、自分が被害者の家族であれば、このような句集が出版されることなど許せないのではないか、彼の句が肯定的な評価を受けることなど、我慢がならないのではないか、と思うのである。
ドキュメンタリーの放送を見て句集を購入したのであるから、私の心が大きく動かされたのは明らかだ。そして、彼の句のいくつかに、強い感動を覚えたことも否定できない。しかし、そのことを後ろめたく思う自分がいるのも事実だ。「罪を憎んで人を憎まず」とはよく言う言葉だが、それは良く言って理想論、悪く言えば空言である。もちろん、人によってはその境地に達する人がいるだろう。しかしそれは広い心の持ち主が、非常な苦しみを乗り越えて達する心境であろうと推察する。私自身が被害者あるいはその家族だった場合、句集を前にして現在と同じ心境でいられるものかどうか、確信がない。であれば、この句集について、ブログに書いて良いものかどうかも、自信をもって言うことができない。
それでも、ウジウジと言いながらもこの句集について書き始めているのは、大道寺の中に自分を見るからだと思う。大道寺のことは見たこともないし、句以外に繋がりはない。しかし、彼の句を読んだときに、そこに自分と繋がるものが見えたと感じたのだ。もしかしたら、それは繋がりではなく、彼のエネルギーかもしれない。彼は自分が多くの人の命を奪ったことを真摯に反省し、死刑を当然のものとして受け入れ、一切の喜びから距離を置こうとしているようだ。そんな彼の自己を律しようとするエネルギーを感じたのかもしれない。辺見も同じようなことを感じたのであろうか。
わたしの生と大道寺の生は、同じものではありえないにもかかわらず、過ちから離脱し解放されたところにないという点では、細いひとすじの暗渠のような思いでつながったところがある。わたしらはわたしらの前庭に積み重なるそれぞれに異なった過誤を、異なった思いで見つめながら生きざるをえない。[中略]それぞれの前庭に並ぶ過誤を、深い穴を掘って埋めてしまい、なかったことにはすまい。もろもろの出来事と喪われたひとりびとりの生身と魂の本来の在処を、日ごと夜ごと、あたうかぎり想起するほかない。ひとつひとつ丁寧に想いつづけるほかはない、と。(8ページ、辺見庸「〈奇しき生〉について―序のかわりに」)

ただし、私は句の批評ができるわけではない。ここに書くのは、あくまでも個人的な鑑賞・感想である。
彼は自分の罪を繰り返し反芻する。辺見によれば、「大道寺は三菱重工ビル爆破事件について、あらゆる機会をとらえて激しい自己批判を繰り返している(209ページ)」そうだ。
死者たちに如何にして詫ぶ赤とんぼ

蟇鳴くや罪の記憶を新たにし

死を直接・間接に題材としたものも多い。毎日刑の執行の可能性がある。そんな毎日を35年以上送るということがどのようなことであるのか、私には想像がつかない。
また明日へつづくいのちぞなめくじり

てんとむし今日繋がるるいのちかな

今日が日をまた越えにけり法師蟬

寒の朝まず確かむる生死かな

刑場の入口に立つ松飾り

死囚ゆえ思ふことあり露の玉

次はこの句集の表題となった作である。彼は自分の独房を既に棺として意識しているのかもしれない。何とも凄まじさを感じさせる句である。
棺一基四顧茫々と霞みけり

死刑執行された囚人のジャージを貰い受けて着ていたことがあると言う。辺見はそれを「悼みと覚悟と抗議のような気持ちを表したかったからではないか(10ページ)」と述べているが、私は、遺品を身につけることで、数少ない「知人」の一人であったその囚人が地上から消え失せてしまうのを防げるような気がしたのではないかと思う。
刑死者の服を纏ひし寒き春

彼は、爆破事件に対して激しい自己批判を繰り返しているが、自己の思想までを放棄したわけではない。政府の反動化や天皇制に対してはっきりとした批判の句を詠んでいることからもわかる。
日の丸・君が代法制化の報に接して

君が代を齧り尽くせよ夜盗虫
夜盗虫(よとうむし) ヨガ科の幼虫。夜間に農作物などを食い荒らす

蟻地獄後戻りする戦前に

愛国を強ふる教への寒さかな

すめらぎを言寿ぐぼうふらばかりなり
すめらぎ:天皇

この句集には、日常にふと現れる人間的な気持ちを詠んだ句もある。私はそのような句にも心引かれる。
虫の音や杖に縋りて母の来る
縋(すが)る

無駄足を母に踏ませて秋の雨

とんぼうや獄舎にありて人恋し

起き伏しに骨の軋むや油照
油照(あぶらでり)

つぎは、最も心を揺さぶられた句である。
陰晴のあひを鞦韆揺らぐかな
鞦韆(しゅうせん):ブランコ

東京拘置所の確定死刑囚の舎房は窓から外を見ることができないという(改築後目隠しが取り付けられたと本書にあった)。暖房もないと聞いている。大道寺は悪性リンパ腫に罹患し、その治療を受けるなど、必要な処遇を受けているとも言えるが、窓のない部屋への拘禁は、人間としての権利は与えられていないものと感じてしまう。
窓のない部屋に人生の半分以上幽閉され、それでも彼は生きている。自分の罪と常に向き合い、命は一日ずつ伸ばされている。彼は大きな犯罪を起こさなければこの境地に至らなかった。これら全てのことが、私の心の底に沈んで行き、そこで少量ずつ濃厚な悲しみを分泌する。

毎日ブログを書いていることを知っている人から、よく「大変でしょう」と言われる。実際、大変だ。本を2日で1冊ほどのスピードで読まないと、本をネタに話を書くのは行き詰まりそうな気がするので、頑張ってほぼ2日に1冊のペースで読んでいる。それだけ勉強になるから、本人としては満足しているが、読んだ本が全てネタに向いているかというと、そうでもない。面白いのだが、ブログのネタにはどうも…という本もある。ただ、「人生のまとめブログ」なので新しい知識は必ずしも必要ない。本は、要は、テーマを決めるための触媒だ。
気を付けているのは、必ず書いた文章の見直しをするということだ。できれば2日以上にわたって見直すようにしている。原稿を夜に書くことが多いが、夜書いた文章は昼間に読むとみじめだということを知っているから、昼間見直すようにしている。ということは、書き終えた原稿と、書きかけの原稿が同時進行しているということだ。今も書きかけの原稿がいくつかあるが、見直しの時間が無いので、まだ公開できない。だから、2週間ほど前に読んだ本について書いたブログだが、公開していなかったものを「蔵出し」することにした。コンピューターのプログラミングの話だ。

コンピュータ関係の雑誌を定期購読しているが、時にはコンピュータ関係の単行本も読んでいる。今回、Boswell、Foucher『The Art of Readable Code』(O'Reilly)を読了したので、いつもとは違うが、この本のことを書きたい。コンピュータの話に関心の無い方には申し訳ないので、前半は一般的な話を書く。

この本は読んで分かりやすいプログラム(コード)を書く方法を解説したものだ(ここから既に分かりにくいかもしれないが、プログラムと言うのはコンピュータに作業を命令する命令書、コードとはその命令書の文章のことである)。対象読者として「プログラムを随分作成しているが、コードの書き方を本式に教わったわけではない」という人を想定しているようだ。大企業ではコードの書き方についての社内規約がしっかりできていることが多いだろうから、中小企業、ベンチャー企業といったところのプログラマーを対象としているのだろう。英語の本を読んでいてよく感じるのが、日本では読者数が少なくて出版ができなさそうな本も、英語ではしっかり出版されているということだ。コンピュータの世界では英語が「共通語」なので、読者層が非常に厚いのだろう。
面白かったのは、どのようにプログラムに落とし込めば良いのかわからないときは、平易な言葉で説明してみるとそれだけで問題が解決することがあるというアドバイスだ。
しかしこの「平易な言葉で説明する」という方法が応用できるのはプログラムの作成に限ったことではありません。たとえば、ある大学のコンピュータ科学の研究室では、学生がプログラムの不具合の原因究明に助けを必要とする場合は、まず最初に、部屋の隅に置いてある専用のクマのぬいぐるみに問題を説明しなければならないという決まりを作っています。驚いたことに、声に出して問題を説明するだけで、学生が答えを考えつくことが多いのです。この手法を「ラバー・ダッキング」と呼んでいます。(137ページ)

また、プログラマーが自戒すべき指摘もある。「プログラマーは製品を構想する場合、機能を盛り込みたがる」という指摘だ。その後のメンテナンスを考えれば、機能はできるだけ絞った方が良い。
プログラマーは機能の実装に要する作業量を少なく見積もりがちです。大雑把な試作品を実装するのに要する時間については楽観的に見積もりますが、将来的にメンテナンスし、解説文書を書くのにどれだけ時間をとられるか、コード全体がどれだけ複雑になるかを忘れています。(140ページ)

また、できるだけライブラリ(定型的な作業を行うプログラム部品を集めたもの)を利用するように勧めている。
よく引用される統計ですが、平均的なソフトウェアエンジニアが1日に作成できる出荷可能品質のコードは10行です。プログラマーが最初にこれを聞かされると、信じられないと驚きます―「コード10行だって? そんなの1分で書けるよ!」
肝心なのは「出荷可能品質」というところです。枯れたライブラリのコードの1行1行が、設計、デバッグ、書き直し、解説文書作成、最適化、検証といった非常に多くの作業の賜物なのです。この生存競争で生き残ってきたコードは、どの行も貴重なものです。(144ページ)

このブログの読者にどれだけプログラマーがいるかわからないが、最後にこの本で学んだプログラム上の注意点を挙げておきたい。1と3は、仕様書なり解説文書を丹念に読めば書いてあることだが、文書が膨大で、つい読まないでいたため、知らなかった。

1.C++のSTDでvector、list、mapなどを消去したい場合、clear()してもメモリは解放されない。swap()すると、コピーコンストラクタが自動的にぴったりのサイズのメモリを確保するので、消去した部分が解放される。(52ページ)
struct Recorder {
    vector<float> data;
    ...
    void Clear() {
        vector<float>().swap(data); // なぜdata.clear()としないのか。
        // こうするとvectorのメモリが解放される。
        //「STL swap trick」でネットを検索すること
    }
};

2.JavaScriptでクロージャを利用してプライベート変数を作成する。以下の例で、最後に()があるので、外側の無名関数が即座に実行され、内側の関数を値として返す。(99ページ)
var submit_form = (function() {
    var submitted = false; // この変数は次の関数からしかアクセスできない。
    return function (form_name) {
        if (submitted) {
            return; // フォームの二重送信を避ける。
        }
        ...
        submitted = true;
    };
}());

3.JavaScriptでは変数にvarを付けないで定義した場合はグローバルスコープになる。すべての<script>ブロックから見えるようになる。(100ページ)
<script>
    var f = function() {
        // 以下のiにvarが無いので、iのスコープはグローバルとなる
        for (i = 0l i < 10; i += 1) ...
    };

    f();
</script>

澁谷智子『コーダの世界―手話の文化と声の文化』(医学書院)読了。コーダとはCODAで、children of deaf adults(ろう者の親の聞こえる子供たち)の頭語である。著者は10年以上にわたってコーダを調査・研究している。この本は、その集大成と言える本である。

この本の立場を私なりに整理してみよう。
手話は一つの言語であり、手話を第一言語とする人々(以下、手話ネイティブと呼ぼう)には手話を中心とした文化(以下、手話文化と呼ぼう)がある。手話を「話す」人は大多数が聴覚障害者であるので、手話文化には音を媒介としないという条件が色濃く反映されている。そして、手話文化は日本社会の中ではマイノリティ文化である。コーダは両方の文化圏の境界で成長するため、両方の文化を身につける。ただし、コーダが皆バイリンガルになるわけではなく、手話教育を受けなければ、手話自体は上達しないが、手話文化は身に付く。

手話は日本語ではない、別の言語だ。また、手話は国によって異なる。日本手話もあれば、アメリカ手話もある。この本はコーダについて書いてある本なので、この本に書いてあることがすべて手話ネイティブに当てはまるとは限らないが、言語としての手話について、手話文化についての知見は、ほぼそのままコーダに当てはまると推測される。手話ネイティブは寝言を手話で言うので、寝ている時に手が動く。さらに、考える時は映像で考えるようだ。
手話環境で育ったコーダが手話を見るときは、音声言語の感覚だけで育った一般的な手話学習者と違って、「複雑な手の動きであってもその動きが軌跡として残り、しかも、それがコンピューター・グラフィックスのように映像がどんどん書き加えられていく」と[コーダの丸地伸代さんは]言っている。
動いているものが軌跡のように残って見える、というのは、ろう者が空書[そらがき]を読み取るときについてもあてはまるらしい。空書というのは、目の前の空間に指で大きく漢字を書いてコミュニケーションする方法である。(47ページ)

聴者は空書が読めないのが普通だが、ろう者は書かれた漢字を(向かい合って)裏から読み取ることができる。映像で考えることに関しては、聴者であっても日本語英語のバイリンガルの中には、頭の中に言葉より映像を思い浮かべる人がいるとのことだ。
さらに、手話の取得は人間の持って生まれた能力により獲得されるようで、生後3ヶ月から肩を叩いて呼ぶなど、ろう者に対して相応しい対応が自然に身に付くようだ。以下はろう者である母親の手記の引用である。
息子は生後三か月のときに私の肩をたたいて呼ぶようになった。普通赤ちゃんは泣いて呼ぶけれど、息子は、添い寝をしていると、先にトントンとたたいて、親が見ると泣きはじめるようになった。幼稚園くらいになって癇癪を起こしたときも、私が見ているかどうかを確かめてから起こりはじめるということがあった。(70ページ)

また、親によっては子供に手話を教えないが、手の動作としての手話は習っていなくても、手話に必ず伴う表情(表情も手話の一部である)は身に付いている。

一時期、手話が敵視され、ろう学校で手話が禁止され口話教育のみが行われた時期があったと記憶している。口話教育により手話を奪われたろう者は、自分の全ての思いを充分に周囲に伝えることができない。音が聞こえないのに発音をコントロールするのは非常に困難な作業であるし、耳から音が入らない場合、音声言語の文法を修得するのが難しい。手話なら雄弁だが、口話は苦手という人も少なくないようだ。子供とのコミュニケーションを考えると、音声のみでの伝達はさらに困難である。幼児の読唇が困難なだけでなく、泣いている我が子の言っていることを読唇で読み取るのはほぼ不可能だ。家庭では手話を使って育てると決めているろう者も多いようだが、そのような理由からだ。もちろん聴者である子供が手話を使う必要はないと、家庭では一切手話を使わないケースもある。

手話文化と音声日本語との差異は興味深い。
「ろう文化」と「聴文化」の違いの一つに、行き先を細かく説明する/しない、というのがある。
「ろう文化」では、自分がその場から席をはずすとき、それが何のためでどこに行くのかを、具体的に説明する。もし、その場にいる誰かが何も言わずに自分の視界から消えるときには、どこに行くのかをいちいち訊く。視覚重視の「ろう文化」では、そのようにして行き先をみんなが知っているようにすることがマナーなのだ。こうした感覚は、コーダの人たちにはかなり内面化されている。(29ページ)

家の中でも、視界から出るときには、必ず行き先を言う。聴者は見えなくなった人の行動を音で捉えることができるが、ろう者ではそれが不可能なので、このような文化が成立するのだろう。手話では相手を見なくてはならないので、話を聞いているときにじっと相手を見てしまうと言うのもろう文化であり、コーダにも身に付いていることがある。そのために誤解を受けたり、戸惑われたりする。
先生が「はい、次はハサミを使って切りますよ~」などと言うとき、ほかの子たちは適当に「は~い」と言って作業しながら先生の話を聞くのに、そのコーダの姉妹はどちらも先生の目を見ているため、先生は戸惑ったらしい。(35ページ)

また、質問と答えの対応付けが異なる。音声日本語文化では「私の眼鏡知らない?」と訊かれれば、「なくしたの?」「さっき外したんじゃない?」などと、質問に答えると言うより、その先を察して発言する。しかし、ろう者の場合は「知らない」と答えるのが一般的だ。これは、答え方の問題で、別に心配していないとか、一緒に探す気がないと言うわけではないのだが、聴者からは「冷たい」と誤解を受けやすいという。また、飲み屋にいる友人に「まだいますか?」とメールすれば、聴文化では「これから行きたい」という意味だが、ろう文化では、単なる質問である。さらに、聴者の友人に「家にいつ来ても良いよ」と言われて、その日に行って驚かれたという逸話も挙げられている。
日本の聴者は慣れてしまっているが、「察し」や「暗黙の了解」が前提となっている音声日本語のコミュニケーションは、ろう者やコーダだけでなく、外国人などにとってもわかりにくいものなのだと思う。(33ページ)

この、聴文化の「察し」は音声日本語文化では際立った特徴となっている。日本人が外国に行って友人ができると「是非日本に遊びにきて」と誘うが、実際に来られると慌てたり迷惑がったりすると言うのは有名だ。また、東京人が京都で誰かの家を訪れた場合、「うなぎのぶぶ漬けでも」(つまり「もう帰れ」ということ)と言われて、「ありがとうございます」と食べる気になって顰蹙を買うというのも有名だ。ろう文化は、質問に対する答え方を見ても、欧米人の文化に近いかもしれない。

2月21日に引き続き、松沢哲郎『想像するちから―チンパンジーが教えてくれた人間の心』(岩波書店)について書きたい。

ヒトとチンパンジーの全ゲノムを比較した結果、約98.9%は同じだったという(12ページ)。チンパンジーとヒトが生物的に近いことに驚かされる(実はイネのゲノムと比較すると、ほぼ同じものが40%見つかっているとのことで、生命の連鎖を実感できる)。著者のチンパンジーに対する愛情は強く、この本ではチンパンジーを数えるのに一人二人と数え、性別も男性、女性と呼称し、人間と区別なく扱っている。
松沢の研究方法も、チンパンジーの「人権」を尊重した「参与研究」で行っている。20世紀前半に行われた研究では、チンパンジーの子供を人間が教育して、チンパンジーがどのような能力を身に付けるかを観察するのが一般的だった。このような研究は「フェアじゃない」(124ページ)と松沢は指摘する。
われわれが見ているのは、親から引き離されて、人間という別種の生き物の環境に放りこまれて、否応なく適応していく様なのだ。それは乱暴じゃないか。生きていくうえで必須な、ものすごく重要な環境を剥奪している。母親という環境を剥奪している。そういうなかで無理やり人間の世界に適応していく様を見ている。(125ページ)

「参与観察」とはチンパンジーの母親に育てられた子供の発達を観察する方法で、その背景には、研究者とチンパンジーが長い時間をかけて親密な関係を結んでいるということがある。これは日本独自の発想で、西欧の研究者はそのようなことをしないのだそうだ。
チンパンジーの子どもはお母さんに育てられる。お母さんと研究者は仲良しだ。長年培ってきたきずなを利用して、お母さんに「ちょっとお宅のお子さん、貸してください。検査させてください」と頼む。それが参与観察というやり方だ。(128ページ)

ここで思うのは、チンパンジーのような野生生物と犬や猫のような家畜との違いである。犬や猫は早期に親から離すことができる。人間の家族の一員として迎え入れ、きちんと慣らすことで、自然に人間のパートナーになる。犬や猫は人間の社会で人と共存して生きるように進化した。野生動物はそうではないのに、安直にチンパンジーが同じだと誤解してしまうのだろう。
また、自然の中のチンパンジーを、人間の姿をできるだけ隠すようにしつつ観察するということもしている。

チンパンジーの発達を見ていて松沢が分かったのは、子供には大人と同じことをしたいという強い動機があるということだ。親が殻から出した実を、子供は取っていくが、それでは満足せず、最終的には自分で殻を割ることを覚える。その際、親は教えない。チンパンジーの教育は「教えない教育、見習う学習」(140ページ)であると言う。それに対し、人間の教育は「教え、認める教育」であると言う。人間の子供には「認められたい」という強い欲求があり、教育においては「認める」という行為が重さを持つと指摘する。

このようにチンパンジーと深く関わる松沢は、テレビに赤ん坊のチンパンジーを登場させることを激しく非難する。少し長くなるが、引用する。
母親から引き離されたチンパンジーの子どもは、背中を丸めてうつろな目をしている。まるで鬱のようだ。ここに人間の飼育員が代理の母親として入る。どういうことが起こるかというと、子どもは飼育者にひっしとしがみつく。チンパンジーの子どもは、母親に強固な愛着を抱くという本性をもっている。だから人間を親代わりにして、しがみつく。[中略]
だからこそ、親代わりになった人間が「手を頭にもっていってごらん」と言えば、手で頭を叩く。「掃除機を使え」と言えば、掃除機を使うだろう。「イヌと散歩に行け」と言ったら、イヌと散歩にも行く。チンパンジーのもつ知性と、その愛着のありかたを知れば、なんの不思議もない。(125ページ)
一日の終わりに疲れてテレビをつけると、チンパンジーが面白おかしいことをしている。それを見て、人があっはっはと笑う。
それは人間としてよくない。[中略]
覚えておいてほしい。テレビに出てくるチンパンジーの顔は肌色だ。あれは子どもの特徴だ。[中略]本来は母親と一緒にいなければいけない年齢の子どもだ。そうしたチンパンジーを、いろいろな理由をつけて母親から引き離している。
ビジネスのために、無理やり子どもを母親から引き離す。あるいは獣医さんが「いやぁ、子育て放棄しちゃって」と勝手な判断をくだして引き離す。どんな理由があっても、たとえ死にいたったとしても、チンパンジーの子どもを母親や仲間から引き離してはいけない。彼らには親や仲間と過ごす権利がある。それを踏みにじってよいという権利は人間の側にない。(126ページ)

実は、私はH. A. レイの絵本『おさるのジョージ』を読んでいて以前から違和感があった。黄色い帽子のおじさんが、ジョージを捕まえて連れて帰るシーンがどうしても好きになれないのだ。1巻以外は単純に楽しむことができ、子供たちにもよく読んで聞かせた。しかし1巻の件のシーンだけが、読んでいて引っかかってしまうのだ。子供たちは「お話の世界のこと」と割り切っているようだ。私のこの「割り切れなさ」が、私の世渡りの下手さと密接に繋がっているのだろう。

↑このページのトップヘ