阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2013年01月

月に1回、某刑務所で受刑者の診療にあたっている(以下の記述は、実際の詳細を記せない事情があり、若干の脚色があることをあらかじめお断りしておく)。この刑務所には殺人犯などの重罪人は収容されていず、中程度以下の犯罪者だが、累犯者が多い。中には覚せい剤の密輸で10年以上の懲役刑を受けて服役中のものもいるようだ。個々の受刑者がなぜ刑務所にいるのか、私には知らされていない。診療するのに知る必要もない。受刑者の構成に関する話は、最初に行われた刑務所の見学の際に聞いたことだ。

受診に来る受刑者にも様々なタイプの人間がいる。人当たりの良い者、小指のない者、しつこい者、老人、若者、外国人。一見して粗暴犯だと分かる者もいれば、知能犯(詐欺師?)だろうと感ずる者もいる。外国人は麻薬関係が多そうだ。
10年の懲役刑で収容されているオランダ人が拘禁反応でほとんど食事が摂れなくなったのを診察したこともある。やせ細り、両側を看守に支えられて歩き、無表情で、言葉も少なかった。拘禁反応とは精神病の一種で、刑務所などに長期間拘束されることで起こる。初期には自律神経失調症の症状を呈するが、神経症、心身症へ移行し、うつ状態、幻覚・妄想・昏迷を生じる(たとえば東京拘置所の松本智津夫死刑囚は拘禁反応に陥っていると、精神科医師で作家の加賀乙彦は断言している)。異国の地、言葉もほとんど通じない環境で拘束されているストレスは相当なものなのだろう。話は飛ぶが、シベリア抑留者の境遇ともなると、想像がつかない。

医療者にとって「病気を診て人を診ない」というのは悪いこととされる。しかし、刑務所での診療では逆に病気のみを診る心構えも大切だ。受刑者の医療費は無料だ。そこで「出所前に診てもらおうと思って」ということを言う受刑者もいる。出所したらたちまち経済的に困窮するかもしれないし(日本の社会は前科者に冷たい。行き場のない者は犯罪に走ったり暴力団に入ったりする)、満足な医療も受けられないかもしれない。だが正直に白状すれば、私は心が狭いのか、心のどこかに引っかかるものがあることに気付く。そんな場合には、病気に集中するようにして、自分の心中のもやもやを無視する。
また、耳鳴りなど、良い治療がない疾患を訴えて、薬が欲しいと食い下がる受刑者もいる。耳鳴りには精神安定剤を処方するという治療法があるが、刑務所内では難しい。乱用のために精神安定剤を欲しがる受刑者がおり、場合によっては闇で取引されることもあるという。「この人は何でそんなに食い下がるのだろう」と、普通の耳鳴りの患者さんに抱くのとは異なる感情を持ってしまう。そんな場合にも、自分の判断が医学的に妥当であるかどうかのみに集中する。
たまたまある受刑者が性犯罪者(強姦魔)であることを知ったこともある。そのような場合、鼻閉(鼻づまり)のような軽微な症状を訴えて受診する相手に対し、心穏やかではいられない自分に気付く。しかし病気のことだけを考える。刑務所の医療職で、このような自己との葛藤のストレスに耐えられず辞めたという話も聞く。
刑務官に対し弁護士に訴えてやると脅す受刑者もいるそうだ。でも刑務官たちは受刑者を差別することなく、必要に応じて必要なことを淡々と行う。犯罪者の人権を言葉で言うのは簡単だが、その実践には奥深いヒダがある。

しかしながら、犯罪者の人権は制度として守られなければない。私は法律には明るくないので、どんな理論があるのか知らない。だが、もし私が冤罪で逮捕され(たとえば満員電車で手を高く挙げていなかったために痴漢の汚名を着せられるなどが分かりやすいだろうか)、その際に人権を無視した取扱いをされたら、一生反社会的な人間になって過ごしそうな気がする。いや、そんな矮小なことではない。喩えどんな犯罪を起した犯罪者だろうが、人権を無視した扱いをするということは、その扱いをする人の心の貧しさを示すものだ。その人の心の中の闇を、獣性を示すものだと思う。もちろん人の心には闇があり、獣性があるのだが、それを隠し、制御するのが「人」だろう。「こうあらねばならない」という考えに基づいて、自己を律する(つまりやせ我慢をする)のが人間だ。犯罪者には刑罰を与えるのであるから、刑罰以外のことで犯罪者を不利に扱ってはならない、ましてや危害を加えてはならないと信じる。時にその自制は辛いことだが。

長野展久『医療事故の舞台裏―25のケースから学ぶ日常診療の心得』(医学書院)について引き続き取りあげる。

ケース8は糖尿病患者の患者教育のケースだ。糖尿病には食餌療法や運動など、生活習慣の変更が必要だが、この患者は言うことをまったく聞かず、病状がどんどん進行した。主治医は何とか言うことを聞かせようと躍起になり、強い調子で患者に説教をした。しかし、その内容は極端なものではなく、教師が冷静に子供に説教する程度のことである。
X医師:糖尿病が悪化すると、ちょっとした熱傷でもこんなに悪くなるんですよ。インスリン注射をもっと強化して血糖値を下げないとだめですね。
Aさん:何度も採血するのは嫌だし、薬も必要ないわ。点滴もしたくない。
X医師:そんなふうだから、足の指も切ることになったのですよ。「身体髪膚父母にこれを受く」という孔子の言葉を聞いたことがありますか? これ以上自分の身体を傷つけないように、治療に取り組んでいきましょう。

しかし、医者に従おうという気のない患者は、この言い方に見下されたと感じたようで、家族に「まったくひどい先生」と不満を漏らした。この後、患者の状態はどんどん悪化したが、医師の提案をことごとく却下し、医療に対しての不満は益々大きくなる。家族には事あるごとに不満をぶちまけ、医師や病院を批判する。
結局この患者は死亡するが、悪口ばかり聞かされていた家族は、訴訟を提起する。

食餌療法に従わない糖尿病患者や、喫煙をやめない肺気腫患者など、治療プログラムに協力しようとしない患者は多い。病院に来ないならそれはそれで首尾一貫しているが、具合が悪くなると病院に来る患者が多い。そこで私たちは、生活指導を成功させるために「コーチング」の技術などを学ぶことになる。患者さんたちを動機付けしてヤル気を出させ、寄り添いつつ励ましてヤル気を持続させようと言うのだ。医療者側の哲学は「健康は良いこと。命が第一」というものなのだが、実は私の頭からは「価値観の押しつけではないか」という疑いが離れない。高校時代に一般常識からかけ離れた生活をした名残りかもしれないが、「不健康で結構。楽しければ命は短くて良い」という哲学もあり得るのではないかと思ってしまう。そのような哲学は受け入れ不可能なものなのだろうか。
病院へ来る限りは医療者側の哲学を受け入れてほしいと、私も思っている。具合の悪いときだけ対症療法で、疾患自体はどんどん悪くなっているというのはさすがに私でも良いとは思わない。また、何かしっかりした考えがあって医療を拒否しているのではなく、単なる「わがまま」で勝手なことを言っている患者が多いことも了解している。しかし、在宅の患者の場合はどうだろう。具合が悪くなったら「治してくれ、入院させてくれ」と言うのでなく、できるだけ医療とは距離をおいて暮らそうと努めている患者の場合、具合の悪いときだけ対症療法という選択肢も、今後は広く尊重しなければならなくなるのではないか。特に高齢者では、節制し我慢する生活のメリットが少ないのではないかと思う。もしかしたら開業医は既にそのような考えでいるのかもしれない。開業医とじっくり話す機会が少ないので、確信はないが、長尾和宏のような「在宅看取り」までしている医師の本を読むとそんな気がする。

ただし、精神科疾患の患者が例外であると考えられるのは、以前のブログに述べた通りだ。うつ病から自殺を図った患者や薬物中毒の患者は、自己決定の機能自体が障害されていると考えられるので、精神科的な治療を平行して進める必要がある。

閑話休題。国分寺駅南口前の書店「三石堂」には変わった本を置いてあるコーナーがあり、以前はそこで時々立ち読みをした(買う金はなかった)。あるとき団鬼六のエッセイ集が眼にとまり読んでみた。団鬼六はSM中心のポルノ小説家であり、非常に奔放な生き方をした人で、大崎善生『赦す人』は彼の伝記である(これも先日少し立ち読みした)。団は当時腎臓を病み、人工透析を導入するために入院したのだが、その際に医師にバイアグラを教えるなど、非行の限りを尽くしたらしい。私は笑いながらエッセーを楽しく読んだが、私が主治医であれば、きっと頭を痛めたことであろう。

臨床倫理セミナー(2012年度臨床倫理セミナー@u-tokyo 第8回)に出席し、予後告知に問題があった症例の事例検討に参加してきた。
症例は進行した消化器癌で、腹水貯留により救急搬送され、緊急に腹水を抜く処理(ドレナージ)を施行された。その際、担当医が患者の家族に病名と予後の告知をしたところ、家族から患者への予後の告知について差し止められ、その後患者への予後告知の機会を逸しているうちに患者の状態が悪化してしまった。いよいよ人生の終末が迫っているのにこのまま予後を告知しなくて良いのだろうかということが問題として提出された。

「予後の告知」と言われてピンと来ない人もいるだろう。「告知」は文字通り「告げ知らせる」という意味だ。生命保険に入ったことのある人なら、今までにかかった病気や、現在治療中の病気について「告知」しなければならないということで、聞いたことのある言葉だろう。医療の現場で「告知」というと、患者に(とても)悪いことを伝えるという意味に使う。患者の生命や人生に関わるような重大なバッドニュースだ。特に(癌などの)病名、病状、生命予後などを伝えるときに用いる。またわからない言葉「予後」が出てきた。「予後」とはこれからの見通しだ。「予(あらかじ)め後(のち)のことを」ということなのだろう。英語ではprognosisで、pro-は「前」、gnosisは「知る」ということだ。「予後の告知」は一般には「生命予後の告知」で、典型的には「あと何ヶ月の命」といった類いを知らせることだ。
現在の日本では病名の告知は原則として行われるようになってきたが、予後の告知(生命予後、QOL低下の経過)は必ず行われているとは言えない。進行癌の場合、予後の告知の方が患者にとって衝撃が大きいし、医療者もうまく伝えにくいからだ。しかし、予後の見通しなしに病名だけ言われても、癌にかかることが死を意味した昔ならともかく、5年生存率が大きく向上している現代では、進行度や予後を併せて教えてもらわなければ、患者さんにとってあまり意味がないだろう。
このセミナーで、私の告知の仕方について質問された。咄嗟のことでうまく答えられなかったので、ここで振り返って考えることにした。

私は生命予後の告知が嫌いだ。「あと半年の命です」などと言うのは非常に不遜な感じがするのだ。実際、患者さんの死期を正確に予測することなど可能なことではない。それができるのは神様だけだ(神様は「予測する」のではなくて、「決める」のだろうが)。予後を告知した医者の方が先に死ぬかもしれない。ところが「あと…の命です」という言葉の背後に「私は大丈夫だが」というニュアンスが隠れているような気がしてならないのだ。だから、はっきりした死期は言わないことが多い。「どこかの時点で『お迎えが来る』ということになりそうですね」とか、「お迎えが来ることも考えておかなければなりませんね」と言い、患者さんの反応によって、動揺が見られれば「そんなことを言っても、寿命は人間には分かりませんから、私の方に先にお迎えが来るかもしれませんけどね」だとか、「まあ、お迎えは誰にでもやってくるんですけどね」とフォローするし、あまり先が長くないことを察していただけないようであれば、「それもそんな先のことではないかもしれませんよ」と少しずつプッシュする。ところが家族に生命予後を告知しようとすると必ずと言っていいほど「あと何ヶ月生きられますか?」と質問される。その場合は、かなりいい加減な推測であることを納得していただいた上でできる限りの予測をお伝えする。「3ヶ月以上1年未満」などと非常に幅のある答えをしなければならないこともある。
一度、患者さんとご家族に告知したところで「あとどれくらい?」と訊かれ、逆に「○○さんはいつまで生きたいですか?」と訊き返したことがある。「孫の幼稚園入園までかな。」「お孫さんは?」「1歳です。」私がそこで「う~ん。」と腕を組んで黙ってしまったので、患者さんもご家族も「そうですか…」と言って黙り込んでしまった。そこで私は「でも、人の命は分かりませんから、とにかく精一杯やりましょう。」と言って面談を終わりにした。

全身状態の経過についての説明も必須だが、なかなか辛い。喉頭癌であれば、進行するといずれ呼吸困難、嚥下障害などが出てくる。喉頭癌の場合、全身状態は悪くないことが多いので、気管切開して気道を確保したり、胃チューブ挿入やIVHポートの挿入などで栄養投与の経路を確保しさえすれば、それなりに余命が延長する可能性がある。喉頭癌で呼吸困難となった場合に、気管切開すればそれを切り抜けられるのに、進行癌だからという理由で放置することはあり得ないと思う。大腸癌で通過障害がある場合に人工肛門を造設したり、膀胱癌で排尿できない場合に尿管皮膚瘻を造設するのと同じだ。QOLは低下するが、苦痛が減少し、生命に直接及んでいる危険が回避できるのであれば、手術をする。これは延命ではない。
しかし、患者さんに「いずれ息が苦しくなるから気管切開をすることになると思うし、ものが食べられなくなるので、鼻から胃に管を入れるか、太い点滴を入れるかの処置が必要になると予想される。さらに進行すると出血するようになるが、大量出血であればそれで命を失いこともあり得る」と、今後の状態の悪化について具体的に説明するのは、こちらも気が滅入る。嫌な話を聞くと、その話をした人間の印象が悪くなるという心理学上の知見もあり、わざわざ嫌われる話をしたくないのは人情と理解してほしい。

このセミナーでは、この患者さんに具体的に今後どうしていくかという結論は出なかった(出るとも思えないし、出すつもりもなさそうだった)。しかし、私にとって実に示唆に富む議論であったし、事例提供者にとっても実りの多い話し合いであったことと思う。

長野展久『医療事故の舞台裏―25のケースから学ぶ日常診療の心得』(医学書院)について引き続き取りあげる。

ケース7は、様々な検査で乳癌を強く疑われた患者が単純乳房切除術(一方の乳房を切除する手術)を受けたが、切除標本の病理検査で癌が見つからなかったため裁判になった事例である。このように、悪性と推定したのに良性であったという例は珍しいが、決してないことではない。学生時代に見学した泌尿器科の手術で、悪性腫瘍を疑って一側精巣摘出手術を行ったが、腫瘍がなかった手術があった。耳鼻咽喉科でも、喉頭癌の放射線治療後、原発部位の潰瘍形成と壊死が進み、喉頭の温存が難しかったため喉頭を摘出したが、腫瘍の再発を強く疑っていたのに再発はなかった症例もある。また、照射後にリンパ節腫脹が残り、癌の残存を強く疑って頸部郭清術(頸部のリンパ節や脂肪組織を一塊として切除し、癌の転移を抑え込む手術)を施行したが、病理検査では腫瘍細胞が死滅していたこともある。この頸部郭清術は結果として不要だったことになる(もちろん病理検査で摘出した組織をすべて検査できるわけではなく、肉眼で確認可能なリンパ節のみを検査するのだから、肉眼で確認できない転移があった可能性はある。しかし、その場合、転移が明らかになった時点で手術するという方針もある)。

この事例での問題点は、患者が手術の必要性について逡巡していたのに対し、医師は命に関わることであるから当然手術が妥当と判断して患者を押し切ったことにある。この症例に対する裁判所の判断では患者の自己決定権が強調された。つまり、手術を受けない、治療をしないという選択肢の重要性が高く評価されたということだ。もし腫瘤が癌であれば、経過観察中に転移を起こす可能性もある。治療したいのなら早く取った方が良い。しかし、一方の乳房を失うくらいならば死んでも良いと考える患者がいるかもしれないことも事実だ。まして、癌の確定診断が付いているわけではないのだから、手術をしない選択肢の重みが増す。ただ、これはあくまで結果論であり、手術をしないでいるうちに癌であであることが明らかになったなら予後を悪くしたことを諦めるしかない。

私は生検の結果を説明する場合や、手術の成績・合併症を説明する場合などに、よく次のように説明する。「私がお話しできるのはあくまでも確率です。あなたがどうなるかは分かりません。たとえば『90%治る』と言っても、10%治らない人がいるわけです。10%に入った人にとっては『100%治らなかった』わけだし、他の90%の人が治っていることに何の意味もありません。もちろん90%に入ることになる可能性がずっと高いわけですが。」少し冷たい気もするが、手術や検査を受けないことも含めて、患者に決定してもらうしかないのだろう。
これに続くコラム6で、著者は胃内視鏡検査施行時の前投薬でアナフィラキシーショックを起こして死亡した事例を取りあげ、以下のように述べる。
自己決定権を尊重した説明とは、「あなたに勧める胃カメラの検査では、喉の麻酔でキシロカイン、胃の動きを抑える目的でブスコパンという薬を使用します。さらに検査を楽に受けるにはセルシンという安定剤も使ったほうがよいでしょう。ただこれらの薬には非常にまれですがショック状態から死亡するという副作用がありますので、検査を受けるかどうかは、あなたがよく考えて決めてください」とするのが適切とのことです。
しかし、このような説明を聞いた患者さんはどう思うでしょう? 換言するなら、胃内視鏡検査の前に、「検査で死ぬ人もゼロではないけれど、それでも検査をやりますか」という説明をし、それでもOKです、ショックを起こしてもいいから前投薬後に胃内視鏡検査を受けたい、と患者さんが自己決定しないと、重大な事故が発生したときの結果責任を問われかねないということが示されました。(73ページ)

以前、私が患者と家族に手術・検査の限界や副損傷について詳細な説明を行った際、「先生は予防線ばかり張っている」と非難された苦い思い出がある。様々な副損傷についてあれこれ説明しても、拒否的な態度の患者からは言い訳を言っていたり、言い逃れのための布石を打っているように感じられるのだろう。また、患者によっては合併症や副損傷の説明を脅しと取ることがあるかもしれない。実際に、こちらが是非必要だと思っている検査について、合併症の話をしたら実施を拒否され、慌てたことが何度もある。
患者の自己決定した内容について、こちらが了解できればまったく問題ない。しかし、了解できない場合、妥当な決定でも患者が理解した上で決定したと感じられない場合、問題となる。たとえば末期がんの患者が非常に落ち込んで、自暴自棄になっていると感じられる場合や精神科疾患の患者の場合は自己決定の機能自体が障害されていると考えられる。

自己決定権は(言葉や概念)としては当然のものである。しかし実際の運用はそんな生易しいものではない。色々な場合があり得るのに「患者の自己決定権」でひとくくりにされることに違和感を感じる。

院内の講演会で「重篤な疾患を持つ子どもの医療をめぐる話し合いのガイドライン」(http://www.jpeds.or.jp/saisin/saisin_120808.html)の成立過程について、日本小児科学会倫理委員会小児終末期医療ガイドラインワーキンググループのメンバーとしてガイドラインの作成に関わった加部一彦(愛育病院新生児科部長)の話を聞いた。
このガイドラインは2004年にまとめられた「重篤な疾患を持つ新生児の家族と医療スタッフの話し合いのガイドライン」(以下、「新生児GL」と表記する)の後を継ぐものとして作成され、2012年8月に日本小児科学会の公式ガイドラインとしてようやく公開されたものである。
本ガイドラインの特徴は、その名が示す通り「プロセス(手順・過程)のガイドライン」であり「治療のガイドライン」ではないということだ。加部はガイドラインとして具体的な治療アルゴリズムを提示することで、医療者が思考停止状態になることを恐れたとのことだ。つまり、「ガイドラインに書いてあるからこうします(検討は不要だし、しても無駄)」と現場が動くことに危機感を持ったのだ。医療関係者はマニュアルやガイドラインを順守しようとする。これは、医療の不確実性故に不可避である医療事故が起こった際に、マニュアルやガイドラインから逸脱していると裁判で不利になると教えられているからだ。また、マニュアルやガイドラインに従った方が楽だということもある。「人は楽な方に行くものですから」と加部は言う。

ガイドラインは全文、本文、フローチャート、チェックリストからなる。作成の過程で何度か案を公開し、意見を求めた。その際に様々な批判を浴びることがあった。
チェックリストは、医療者側の伝えたいことが患者家族側にきちんと伝わっているか確かめるための、内省手段として準備したものであったが、「上から目線だ。親の理解度をチェックするとは何事だ」と非難されたという。加部は「逆に親の人生観、生命観について医療者側の理解度をチェックする必要すらある」と指摘する。医療者と患者で、医療情報に注目して情報格差が語られることが多いが、生活情報や人生観については患者側にしか情報がない。格差は双方向だ。
「治療差し控えを認めるのか」と言う指摘もあったそうだ。これは「新生児GL」公表の際にも上がった声だ。私が目にしたブログ(http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/37517395.html)でも、「このガイドラインができることによって自動的に「重篤な疾患を持つ新生児」の治療中止や差し止めそのものが前提として是認されてしまっているのではないか」と指摘している。確かに第10項と11項は生命維持治療の差し控えや中止の検討に宛てられており、ブログのような懸念はもっともだとも思う。しかし、差し控えや中止が話題になる可能性が決して低くなく、それはきわめて重大な決定であるので、ガイドラインとして「条件を付ける」のは正当なことだろう。むしろ、このガイドラインは「何も前提としない」ことに重きを置いていると考えるべきではないか。人命に関わる問題を医療が(ガイドラインという形で)あらかじめ決定することはできないはずだ。「延命なら認める」「治療中止なら認めない」ということではなく、白紙の状態から話し合おうということだ。ガイドラインで枠をはめないのは正しいあり方だと思う。

本当の問題は別にある。ガイドラインでは「こどもの最善の利益」に基づいて決定が行われるべきだとしている。これは当然の話だが、それでは「こどもの最善の利益」とは何だろう。何が「最善の治療」なのだろう。乳幼児の場合、それを誰が決めるのか。医療者だろうか、親だろうか。先のブログでもこの語が定義なしに使われていることを批判している。
子供は親の所有物ではない。子供に人格を認め、個人として尊重するということはそういうことだ。また、実は医療者には子供を「親から守る」義務がある。親が子供を虐待して重篤な状態にしていることもある(翌日には小児虐待の研修があった。救急医療を行っている大病院の場合、虐待され重症となった児の搬送もある)。また、親が医療費が嵩むことを恐れて医療を拒否することもあり得る。そのような場合に、医療者は子供の側に立って決定を行わなければならない。親に決定させるわけにはいかない。では普通の親なら、子供のことを心配し、最善を願う普通の親ならどうか。そんな親からも「守る」ことが必要なのだろうか。結論を言えば、その親が普通かどうかの判断を医療者がするなら、結局は同じことだ。結局は医療者がすべてを判断している。だが、それで良いのだろうか。
問題は小児の場合だけではない。成人・高齢者の場合でも、本人の意思確認ができないような重症心身障害者、認知症患者、意識障害のある患者では同様の問題が起こる。死亡届の不提出による年金不正受給が一時騒がれたが、同様の構図として、収入確保のためと推定される延命が実際に要求されることがある。患者の苦しみが増すだけなどの理由で医療者が延命の意義を認めない場合、家族からの延命の要請に従うのは苦痛を伴う。家族の要請に従わなければならないのか。

本来、医療は社会制度とは別物であると思う。医療側からすれば社会制度には関わりたくない。小児の場合、親が代諾者になり得るかどうかは、医療が決められることではない。本人の意思確認ができない患者の場合、家族が患者の意思を代弁しているかどうか、医療者は決められない。「この親はダメ」「この人は良い」と直感的・本能的に「わかる」ことはあっても、公式な決定権を持つことには無理がある。代諾者の決定には医療が参加すべきではないのではないか。医療者は「善良な管理者」に徹して治療にあたり、どこまで治療を行うかは別の次元で決定されるのが望ましいと思う。
とは言え、決定してくれる人はいないし(児童相談所に持ち込むわけにも行かない)、実際の医療現場では何らかの決定が不可避である状況が多い。正解は一つに絞れるわけがない。となると、その時々に関係者で(可能であれば利害関係や思い入れなしに客観的に評価できる「無関係者」も含めて)話し合いの上で個別に結論を出して行くしかないだろう。そのような「苦渋」を踏まえて、ガイドラインを運用するしかない。

近年、医療は長足の進歩を遂げ、もう人間がコントロールできないところまで進歩してしまった。医療は倫理に反することもできるようになってしまった。昔ながらの社会であれば、良いことと悪いことの区別は既に制度化されていることが多い。しかし、医療の発展と共に新しく生まれた分野では、その区別は困難なことが多い。私は、善悪の区別をつけるのは医療ではなく社会であるべきだと思っている。医療者が決めることではなく、社会全体が迷い悩みながら、場合によっては血や涙を流しながら決めて行くことではないのか。しかしながら、社会が結論を出すまでの間は、医療を実施する医療者が自省しつつ自らを律して行くしかないだろう。
加部は、ガイドラインに当初含まれていながら、最終的には削除された項目としてグリーフケア(患者の死など、深刻な事態に関わった家族や医療者の心のケア)を挙げていた。私個人としては、医療の守備範囲が際限なく拡大する傾向に危機感を感じている。従って、医療がグリーフケアに手を伸ばすのにも賛成できない。それは地域社会や家族といった、医療以外の分野が担当すべきことだと思う。逆に言えば、弱者を支え、困難者に共感する働きが社会にきちんと備わっていなければならないと考えている。しかし、日本のように宗教性の薄い社会では、結局は、少なくとも当面は、これも医療が担うしかないと思っている。

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