月に1回、某刑務所で受刑者の診療にあたっている(以下の記述は、実際の詳細を記せない事情があり、若干の脚色があることをあらかじめお断りしておく)。この刑務所には殺人犯などの重罪人は収容されていず、中程度以下の犯罪者だが、累犯者が多い。中には覚せい剤の密輸で10年以上の懲役刑を受けて服役中のものもいるようだ。個々の受刑者がなぜ刑務所にいるのか、私には知らされていない。診療するのに知る必要もない。受刑者の構成に関する話は、最初に行われた刑務所の見学の際に聞いたことだ。
受診に来る受刑者にも様々なタイプの人間がいる。人当たりの良い者、小指のない者、しつこい者、老人、若者、外国人。一見して粗暴犯だと分かる者もいれば、知能犯(詐欺師?)だろうと感ずる者もいる。外国人は麻薬関係が多そうだ。
10年の懲役刑で収容されているオランダ人が拘禁反応でほとんど食事が摂れなくなったのを診察したこともある。やせ細り、両側を看守に支えられて歩き、無表情で、言葉も少なかった。拘禁反応とは精神病の一種で、刑務所などに長期間拘束されることで起こる。初期には自律神経失調症の症状を呈するが、神経症、心身症へ移行し、うつ状態、幻覚・妄想・昏迷を生じる(たとえば東京拘置所の松本智津夫死刑囚は拘禁反応に陥っていると、精神科医師で作家の加賀乙彦は断言している)。異国の地、言葉もほとんど通じない環境で拘束されているストレスは相当なものなのだろう。話は飛ぶが、シベリア抑留者の境遇ともなると、想像がつかない。
医療者にとって「病気を診て人を診ない」というのは悪いこととされる。しかし、刑務所での診療では逆に病気のみを診る心構えも大切だ。受刑者の医療費は無料だ。そこで「出所前に診てもらおうと思って」ということを言う受刑者もいる。出所したらたちまち経済的に困窮するかもしれないし(日本の社会は前科者に冷たい。行き場のない者は犯罪に走ったり暴力団に入ったりする)、満足な医療も受けられないかもしれない。だが正直に白状すれば、私は心が狭いのか、心のどこかに引っかかるものがあることに気付く。そんな場合には、病気に集中するようにして、自分の心中のもやもやを無視する。
また、耳鳴りなど、良い治療がない疾患を訴えて、薬が欲しいと食い下がる受刑者もいる。耳鳴りには精神安定剤を処方するという治療法があるが、刑務所内では難しい。乱用のために精神安定剤を欲しがる受刑者がおり、場合によっては闇で取引されることもあるという。「この人は何でそんなに食い下がるのだろう」と、普通の耳鳴りの患者さんに抱くのとは異なる感情を持ってしまう。そんな場合にも、自分の判断が医学的に妥当であるかどうかのみに集中する。
たまたまある受刑者が性犯罪者(強姦魔)であることを知ったこともある。そのような場合、鼻閉(鼻づまり)のような軽微な症状を訴えて受診する相手に対し、心穏やかではいられない自分に気付く。しかし病気のことだけを考える。刑務所の医療職で、このような自己との葛藤のストレスに耐えられず辞めたという話も聞く。
刑務官に対し弁護士に訴えてやると脅す受刑者もいるそうだ。でも刑務官たちは受刑者を差別することなく、必要に応じて必要なことを淡々と行う。犯罪者の人権を言葉で言うのは簡単だが、その実践には奥深いヒダがある。
しかしながら、犯罪者の人権は制度として守られなければない。私は法律には明るくないので、どんな理論があるのか知らない。だが、もし私が冤罪で逮捕され(たとえば満員電車で手を高く挙げていなかったために痴漢の汚名を着せられるなどが分かりやすいだろうか)、その際に人権を無視した取扱いをされたら、一生反社会的な人間になって過ごしそうな気がする。いや、そんな矮小なことではない。喩えどんな犯罪を起した犯罪者だろうが、人権を無視した扱いをするということは、その扱いをする人の心の貧しさを示すものだ。その人の心の中の闇を、獣性を示すものだと思う。もちろん人の心には闇があり、獣性があるのだが、それを隠し、制御するのが「人」だろう。「こうあらねばならない」という考えに基づいて、自己を律する(つまりやせ我慢をする)のが人間だ。犯罪者には刑罰を与えるのであるから、刑罰以外のことで犯罪者を不利に扱ってはならない、ましてや危害を加えてはならないと信じる。時にその自制は辛いことだが。
受診に来る受刑者にも様々なタイプの人間がいる。人当たりの良い者、小指のない者、しつこい者、老人、若者、外国人。一見して粗暴犯だと分かる者もいれば、知能犯(詐欺師?)だろうと感ずる者もいる。外国人は麻薬関係が多そうだ。
10年の懲役刑で収容されているオランダ人が拘禁反応でほとんど食事が摂れなくなったのを診察したこともある。やせ細り、両側を看守に支えられて歩き、無表情で、言葉も少なかった。拘禁反応とは精神病の一種で、刑務所などに長期間拘束されることで起こる。初期には自律神経失調症の症状を呈するが、神経症、心身症へ移行し、うつ状態、幻覚・妄想・昏迷を生じる(たとえば東京拘置所の松本智津夫死刑囚は拘禁反応に陥っていると、精神科医師で作家の加賀乙彦は断言している)。異国の地、言葉もほとんど通じない環境で拘束されているストレスは相当なものなのだろう。話は飛ぶが、シベリア抑留者の境遇ともなると、想像がつかない。
医療者にとって「病気を診て人を診ない」というのは悪いこととされる。しかし、刑務所での診療では逆に病気のみを診る心構えも大切だ。受刑者の医療費は無料だ。そこで「出所前に診てもらおうと思って」ということを言う受刑者もいる。出所したらたちまち経済的に困窮するかもしれないし(日本の社会は前科者に冷たい。行き場のない者は犯罪に走ったり暴力団に入ったりする)、満足な医療も受けられないかもしれない。だが正直に白状すれば、私は心が狭いのか、心のどこかに引っかかるものがあることに気付く。そんな場合には、病気に集中するようにして、自分の心中のもやもやを無視する。
また、耳鳴りなど、良い治療がない疾患を訴えて、薬が欲しいと食い下がる受刑者もいる。耳鳴りには精神安定剤を処方するという治療法があるが、刑務所内では難しい。乱用のために精神安定剤を欲しがる受刑者がおり、場合によっては闇で取引されることもあるという。「この人は何でそんなに食い下がるのだろう」と、普通の耳鳴りの患者さんに抱くのとは異なる感情を持ってしまう。そんな場合にも、自分の判断が医学的に妥当であるかどうかのみに集中する。
たまたまある受刑者が性犯罪者(強姦魔)であることを知ったこともある。そのような場合、鼻閉(鼻づまり)のような軽微な症状を訴えて受診する相手に対し、心穏やかではいられない自分に気付く。しかし病気のことだけを考える。刑務所の医療職で、このような自己との葛藤のストレスに耐えられず辞めたという話も聞く。
刑務官に対し弁護士に訴えてやると脅す受刑者もいるそうだ。でも刑務官たちは受刑者を差別することなく、必要に応じて必要なことを淡々と行う。犯罪者の人権を言葉で言うのは簡単だが、その実践には奥深いヒダがある。
しかしながら、犯罪者の人権は制度として守られなければない。私は法律には明るくないので、どんな理論があるのか知らない。だが、もし私が冤罪で逮捕され(たとえば満員電車で手を高く挙げていなかったために痴漢の汚名を着せられるなどが分かりやすいだろうか)、その際に人権を無視した取扱いをされたら、一生反社会的な人間になって過ごしそうな気がする。いや、そんな矮小なことではない。喩えどんな犯罪を起した犯罪者だろうが、人権を無視した扱いをするということは、その扱いをする人の心の貧しさを示すものだ。その人の心の中の闇を、獣性を示すものだと思う。もちろん人の心には闇があり、獣性があるのだが、それを隠し、制御するのが「人」だろう。「こうあらねばならない」という考えに基づいて、自己を律する(つまりやせ我慢をする)のが人間だ。犯罪者には刑罰を与えるのであるから、刑罰以外のことで犯罪者を不利に扱ってはならない、ましてや危害を加えてはならないと信じる。時にその自制は辛いことだが。