阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

2013年01月

グランディン、ジョンソン『動物感覚―アニマル・マインドを読み解く』(NHK出版)読了。少し古い本(2006年日本語版出版)だが、非常に面白く、ためになる。訳者あとがきによれば2005年に米国で出版され、12週間「ニューヨーク・タイムズ」でベストセラーとなり、2006年4月の日本語版出版時点でもペーパーバック版が同じくベストセラーになっていた本である。

著者(グランディン)は自閉症を持っており、「ふつうの人」とはものの見方、考え方が異なる。それを本人が説明しているので、まったく違う視点から見た世界が展開されており、同じ世界に生きていても、その認識(情報処理)の違いにより別の現実を生きていることが理解される。

人間は脳を使って外界を知覚し認識している。ところが、私たちが見ていると思っているものは、実は脳によって処理された後の「要約」である。不要なもの、予想外のものは削除されて整理されている。著者らはそれを「思考の抽象化」(43ページ)と呼ぶ。「ふつうの人は知覚から得た生の情報ではなく、その概要を見たり、聞いたりしている。(92ページ)」ところが、自閉症があると脳での処理の方法が異なるので、私たちに見えないもの(私たちの脳が削除してしまう情報)が見える。
私たちの脳は膨大な量の情報を処理しなければならない。そこで行われているのが無意識下の前処理である。目に入ったもの、耳に届いたものは無意識下に処理され、不要と判断された情報が削除されて、概念化され整理される(以下のビデオを見て、白い服を着た人が何回ボールをパスしたか数えると、脳が不要な情報を削除しているのがわかる:http://www.youtube.com/watch?v=vJG698U2Mvo)。
人は文章を読んでいて、ページの中に自分の名前があると、いくらほかのことに集中していても、かならずといっていいほど気づく。マンガ風に描かれたほほえんでいる顔にも気づく。ところが、顔がほんの少しでも変わると[中略]気づかない。これは、知覚情報を人が意識する前に、脳がすっかり処理していることをよりはっきり示す証拠だ。ほほえんでいる顔の場合、脳は情報を意識的な知覚に侵入させる前に、それが顔で、しかもほほえんでいる顔だとわかるレベルまで処理していなければならない。さもなければ、ほほえんでいる顔と同じくらい頻繁にしかめっ面を見るはずだ。名前でも原理は同じだ。自分の名前が「ジャック(Jack)」なら「ジャック」という単語は目に飛びこんでくる。だが「ジック(Jick)」だと、目に入らない。ということは、脳は「ジャック」という単語を意識に入れる前に、それが自分の名前だとわかるレベルまでわざわざ処理しているのだ。(93ページ)

パーティーの雑踏の中で誰かが自分の名前を言うと気が付いたり、知り合いがいると目に入ったりする「カクテルパーティー効果」も、高度な前処理の済んだ情報のみが意識に伝えられるという証拠だろう。

ここで重要なのは、概念化により詳細(あるいは不要と判断された情報)が脱落ことである。その例として、著者らは絵の教室で絵を逆さまに見たり描いたりする指導について述べている(392ページ)。絵画教室では指導者が逆さまにした絵を見た通りに写生させたり、対象その物ではなく、対象を取り囲むネガティブスペースを描かせたりするそうだ。私は子供の頃、マンガを描くのが好きだったが、マンガの入門書に「逆さまから見てもきちんとした絵になっていないといけない」と書いてあるのを見て、自分の絵を逆さにして見たことを思い出す。あまりの歪み方に驚いたものだ。普通に見ていると、その歪みは脳内で修正されて意識に届かないのだ。
この「物を見ない」(で「処理された概念」のみを「見る」)ヒトの性質は、言語処理と関連があるらしい。「言葉の隠蔽効果」(344ページ)と呼ばれる現象がある。言語化すると、視覚情報が減少するのだ。筆者らが挙げた例は銀行強盗のビデオテープを見せる実験だ。ビデオテープを見た後に強盗の特徴を書き出す作業をしたグループは、関係のない作業をしたグループと比較して、強盗の顔写真を見分けられた人が半分に減った。記憶が消されたわけではなく、音楽を聴いたり、パズルをしたり、言語にかかわらないことをしばらくさせると、顔写真を見分けられる人が増える。
そこで著者らは「ふつうの人」を言語型人間、自閉症の人を「視覚型人間」と呼ぶ(42ページ)。ふつうの人は大量の感覚情報を処理して概念化し、要約して理解する。だから、多くの情報を効率的に取り込むことができるが、細部を「うっかり」見落としたり、誤解したりする。自閉症の人は視覚情報や聴覚情報をそのまま取り込むので、ふつうの人が気付かないことに容易に気づくが、分類などの概念化が不得意で、情報が多すぎると混乱してしまいやすい。
著者らは、ヒトは入力された生の情報を知覚する能力を犠牲にすることでヒトとしての知能を得たと言う。自閉症の人たちが特殊な才能を持っているとされるのは、その「生の情報」を処理する能力のためだと言うのである。また、動物も生の情報により思考・判断しているので、自閉症の人から見ると、動物の考えや行動が良く理解できる(動物がこの本の主題だが、動物については後日述べたい)。

養老孟司が『唯脳論』で「現代人はいわば脳の中に住む」と述べているように、人は外界をシンボル化して理解し、シンボル(言語)を用いて他人とコミュニケートし、社会を構築する。しかし、私たちが「外界」として認識しているものは、実際の外界ではなく、抽出され解釈された外界である。解釈の仕方が異なれば、「外界」は異なる様相を見せる。私たちが客観的な実在と信じているものは、実は主観的な概念にすぎないのかもしれない。そのようなことを感じさせる本だ。

多田富雄『寡黙なる巨人』が文庫化された(集英社文庫)。養老孟司の解説がついている。文庫本は読んでいないが、単行本(集英社)は読んだ。学会出張の際に、ホテルの近くの古本屋に行き、そこで購入したものだ。

多田富雄は東京大学名誉教授で免疫学の大家である。2001年に脳梗塞を発症し、右半身不随と構音障害、嚥下障害が残った。「半身が動かなくても、言葉が喋れなくても、私の中で日々行われている生命活動は創造的である」「歩き続けて果てに熄(や)む」などの言葉を残している。2005年12月4日にはNHKスペシャル「脳梗塞からの“再生”」が放送され、2012年6月2日にはNHK「あの人に会いたい」で取りあげられた。「あの人に会いたい」は土曜日の5時45分から再放送されているので、私はその再放送で見た。

多田は、自分で動かすことのできない自分の体を、まるで他人の体のように感じた。その体が徐々に動き出すのを感じて、体の中で何かが生まれるような気がした。
発病直後は絶望に身を任せるばかりで、暇さえあれば死ぬことばかり考えていた。言葉を発することができないので、ただおろおろと、人のいうがままに動いていた。あのときすでに死んだのだから、日常は死で覆われていた。私は死人の目で世界を見ていた。後で考えれば得がたい経験だったが、そのときは絶望で何もかもが灰色だった。希望のかけらすらなかった。
それがリハビリを始めてから徐々に変わっていったのだ。もう一人の自分が生まれてきたのである。それは昔の自分が回復したのではない。前の自分ではない「新しい人」が生まれたのだ。(231ページ、以下ページ数はすべて単行本による)

多田は体の中に生まれた「新しい人」を「寡黙な巨人」と呼んだ。そして、初期の絶望から立ち直り、徐々に姿を現す「寡黙な巨人」にいとおしさを感じるようになった。
つらいリハビリに汗を流し、痛む関節に歯を食いしばりながら、私はそれを楽しんでいる。失望を繰り返しながらも、体に徐々に充ちてくる生命の力をいとおしんで、毎日の訓練を楽しんでいる。(回復する生命―その2)(113ページ)

そうやって、些細なことに泣き笑いしていると、昔健康なころ無意識に暮らしていたころと比べて、今のほうがもっと生きているという実感を持っていることに気づく。(苦しみが教えてくれたこと)(117ページ)

終末医療に携わるものとして、高齢者の重篤な疾患の場合に、どこまで治療を頑張るかという問題を考えることが多い。多田が脳梗塞で倒れた時がまさにそうだっただろう。彼は救命されたが後遺症のためにQOLが著しく低下した。多田は絶望の淵から這い上がり、前向きに人生を歩むようになった。彼がこのように前向きにならない状態のままであれば、果たして救命に意味があったのだろうかと、本人も、家族も悩に続けたのではないか。重篤な状態の患者を前にしたとき、ただ患者の苦しみを引き延ばすだけだからと、治療を諦めることがないだろうか。この多田の経験を読むと、軽々に治療を諦めることがいかに危ういことであるかが分かる。

文庫本が出たのを機会にAmazonの書評(カスタマーレビュー)を読んでみた。私はこの本を好感をもって受け止めていたので、低評価のレビューがあることに正直言って驚いた。以下は★1つ(最低評価)のレビューである。
脳梗塞は三大成人病。すなわちこの障害を患っている人の数は計り知れない。誰にでも起こりうることであり、別段驚くことではない。そんな○千万人にもなる莫大な患者数の中で、著者以上に悲しみ、苦しみ、著者以上に頑張っている方は五万といる。
ただ、違いといえば著者がもともと著名な人物であったというだけだろう。

その通りとしか言いようがない。しかしこの論理では、最も苦しんでいる人だけが苦しみを訴える権利があるように聞こえてしまう。このレビューは★2つのレビューに引用されており、そこでは、著者が恵まれている環境にあるのだから「文句を言うのは罰当たりだ」と言っている。上のレビューの主も同様のことを言いたかったのだろう。確かに多田は恵まれている。経済的にも、社会的にも。しかし、恵まれている人間は文句を言うべきではないと言い出すと、結局は不幸の度合いの競争になってしまう。誰かが自分の身に起こった災難や疾患について書くと、必ずそれより不幸な人がいるはずだから、その人を引き合いに出して批判されることになる。多田の文章を読んでいても、私には彼が悲劇の主人公になって我が身ひとりの不幸を嘆いているとは思えなかった。多田が免疫学者として数々の業績を残しているということを知っているために、私の見方にバイアスがかかっているのかもしれないが、多田の文章に見るべきものがまったくないと断定されるのはいささか悲しい。

★が少ないレビューでは、多田の「リハビリ打ち切り政策批判」に対する違和感を訴えているものが多い。これには私も同感である。「批判」ではなく「提言」であれば、もっと歓迎されたであろう。「リハビリ打ち切り政策」はリハビリを受けている患者・障害者にとって、まさに人生の夢を奪われるような仕打ちと言っても良いと思う。確かにレビューアが指摘するように、必要性の精査や財源の問題を抜きにして一方的に厚労省を批判するだけでは生産的ではない。しかし、多田にはそうするしかないような切羽詰まった心情があったのだろう。

多田は千葉大の出身であるが、免疫学の領域で大きな成果を挙げ、東大の教授として招聘された。当時は東大の教授はほぼ東大出身者で占められており、他大学の教授を採用するのは異例のことであった。それだけの業績を上げているのだと学生たちは噂したものである。多田同門会(弟子たちの集まり)は東大内の施設を使って行われている。以前その多田が、學士會発行の「U7」(だったと思う)に東大を批判するエッセーを寄稿したことがある。その中で多田は、千葉大はすばらしい環境で、自分は千葉大に育てられたが、東大に移って「せこい学生とせこい教授」に囲まれ、何も学ぶべきことがなかった、と「口を窮めて罵る」という表現が相応しいと思える書き方で東大を批判していた。多田の厚労省批判を読みながら、U7のエッセーを思い出した。そのような見方があるという事実は受け入れるが、寂しさを感じるのもやむを得ないだろう。

私がクラス委員を務めるPTAの役員であるT氏は、ご自身の仕事の業界以外のこともいろいろよくご存知で、ITについても知識が豊富だ。先日の講演終了後、このブログの話をした。

先日、私の翻訳の師匠と連絡を取ったついでにブログを書いていることを報告したら、もう読んだという。ネットで書籍を検索したところ、私が紹介しているのがヒットしたと言うのだ。また、『医療事故の舞台裏』の著者、長野先生からもコンタクトがあった。
日本中でどれだけブログがあるのか知らない。このブロガリは30のカテゴリに分類されているが、今数えたら合計8834のブログがあった(私のブログは「読書」に分類されていた。自分で分類した覚えはないので、自動的に分類されたのだろうか)。最大のブログサービスであるアメーバブログは2012年1月時点での会員数2千万人で、ウィキペディアによれば「ブログのアクティブユーザーは2009年11月時点で約115万人/月」とのことである。livedoor Blogはニュースだけで4万件ある。Yahoo!ブログは調べていない。
総務省情報通信政策研究所が2008年7月2日に発表した「ブログの実態に関する調査研究」によれば、2008年1月現在の国内におけるブログの数は約1690万(そのうちアクティブなブログは約300万程度)、記事総数は13億5,000万件だという(http://makitani.com/2008/01/blogs_in_japan.html)。ずいぶん古いデータなので、現在のブログ数も記事総数もこれよりずっと多いだろう。Yahoo!やGoogleなどの検索エンジンがどの程度の範囲を検索しているのかは知らないが、1月1日から書き始めた私のブログが検索でヒットして読まれているという事実は、膨大なデータが短時間のうちに収集され分類整理されてタグ付けされ、アクセス可能な状態で保存されていることを表している。ある意味で恐ろしい事態である。

検索でヒットして既に読まれている話をしたところ、T氏がブログの管理を請け負う会社があるという話をしてくれた。ブログの管理と言っても、作成・更新ではない。ブログに対してどこかで批判がされていないかを検索・調査するのである。あるブログの記事に対して、別の場所で批判が次々と出され、いわゆる「炎上」状態になり、批判対象のブログが潰されることがあるという。ブログによっては、専門業者に依頼してそのブログが取りあげられていないかインターネット内を検索し、批判されていたり炎上していたりすると、専門的な対策を講ずるという。T氏の会社のホームページについても、どこかで取りあげられていないか、ウェブロボットで検索して情報を収集し、不穏な動きがあれば対策を講じる準備があるとのことであった。
ここでウェブロボットについて説明しておこう。インターネット上のホームページはHTMLという言語で記述されている。ホームページのデータをそのまま読めば、ただの文字列だ。FireFoxであればメニューから[ツール]→[Web開発]→[ページのソース]、Safariなら[表示]→[ソースを表示]を選択すれば、閲覧中のページの元となっているHTMLプログラム(ソース)が表示される。Internet Explorerなら[表示]→[ソース]を選択するか、マウスの右ボタンをクリックして表示されるショートカット・メニューの[ソースの表示]を選択する。
ソースとホームページとを見比べて気付くのは、ホームページに表示されている文字はほとんどソースに含まれており、ソースにはその他に<>で囲まれた文字列(タグ)が大量に含まれていることだ。タグは文字列の文章内での位置づけ(標題、章タイトル、地の文など)や表示方法(太字、斜体字、文字色)などを指定する。
ブラウザはユーザーが指定したアドレス(URL)からHTMLプログラムを読み込み、解析して画面にレイアウトして表示する。一方、ウェブロボット(「検索ロボット」とか「クローラー」と呼ばれる)は自動的に片っ端からホームページを読み込んで、解析して分類し結果を保存する。ウェブロボットの利用者は後からその分類結果を参照して利用するのだ。T氏の例なら、自社のホームページのアドレスや標題など特徴的な文字列を含む(自社以外の)ホームページを検索して抜き出し、いちいちそのページを開かなくても内容が分かるように、検索した文字列の周囲の文章を一覧形式で表示するのだろう。

私が若い頃は、自作の詩を発表しようとすれば、詩集をガリ版や和文タイプで印刷して新宿西口の広場で売るしかなかった(こんな書き方をしても、若い人は分からないだろうか)。現在、私たちはメディアを手に入れた。自分の意見や作品を簡単に公開できるようになった。しかしそれはプッシュ型のメディアではない。公開しても誰も見てくれないかもしれない。だが、検索の力を借りることにより、公開された情報に興味を持つ人びとの目には非常に触れやすくなったと言える。まさに隔世の感がある。人びとがメディアを手にしたことで、アラブの春や中国でのデモが起こっているのだ。

しかしながら、そのメディアには(内田樹の言葉を借りれば)「呪い」が潜んでいるのも事実だ。相手を「傷つけよう」「潰そう」という明確な意図を持った書き込みが為される。建設的な議論をしようという「発言」ではなく、傷つける以外の目的のない「呪い」が発せられることがあるのだ。私のブログは無事に続くのだろうかと、ふと不安を感ずることもある。

長野展久『医療事故の舞台裏―25のケースから学ぶ日常診療の心得』(医学書院)を引き続き取りあげ、提示されているケースについて考えたことを述べる。

ケースファイル10はインフォームド・コンセント(説明と同意)の失敗例だ。膀胱がんの患者に、膀胱の摘出と尿管皮膚瘻増設の説明をし同意を得て手術を施行したが、患者は術後の状態について正しく理解しておらず、訴訟となった。

尿は腎臓で作られ、尿管を通って膀胱に集められて一旦そこで貯められ、尿道を通って体外に排泄される。この患者では膀胱がんのため膀胱と尿道の一部を合併切除しなければならなかった。尿の行き場がなくなるため、尿管を皮膚に出し、皮膚の孔から尿が出るようにした(これを尿管皮膚瘻と呼ぶ)。尿は孔のところにバッグを付けて貯めておいて、時々捨てる。術後の生活について、具体的なイメージがきちんと患者の中に形成されておらず、患者はペニスから排尿できると思っていたために、「こんなはずではなかった」ということになった。
手術前の説明では、患者が理解できるように説明しなければならないとされる。当然のことである。だから図を描くなどの手段を交えて分かりやすく説明する。この事例の問題点は、手術の説明のとき家族は納得したが、患者は一言も発言せず黙っていたこと(同意書には署名したが)、説明のときに「自然な排尿はできなくなり、尿をバッグで取るようになる」というQOLの変化を、具体的に言葉で説明しなかったことだ。膀胱や尿道を摘出すれば当然の帰結として自然な排尿は困難となるので、詳細な説明が必要ということに医師は思い至らなかったのだろう。
医療者はつい「このぐらい考えれば分かるだろう」と思って説明を省略することがある。しかし、手術の前の日に「水もお茶も飲んではいけない」と言われた患者が牛乳を飲んだり、検査前に「ごはんを食べてはいけない」と言われたのでパンを食べたと言うような、滑稽な事例には事欠かない。患者の理解度も千差万別である。

私は今までに複数の病院での勤務を経験してきた。各病院の手術や処置の説明書を見ると、目的・利益、欠点・副損傷・合併症、他の選択肢などについてはどこの病院の説明書でも必ず述べているが、術後のQOL(生活の質)についてはあまり述べていないことが多い。大手術の場合、QOLの変化は多岐にわたり説明が膨大になることと、ボディーイメージが変化する場合にQOL変化の内容が実感しにくく説明が困難と考えられるとこが、説明書に入れにくい理由だろう。もちろん重大な変化については合併症として書いてあるのが普通で、私は詳細について口頭で必ず(手術の当然の結果として)説明してきた。他の医師も同様だろう。
喉頭摘出術について言えば、声を出す器官を摘出するのだから、声が出なくなることは当然話すし、説明書に記載がなくても患者は分かる。しかし、「いきみ」ができないこと、咳がしにくいこと、鼻がかめないこと、臭いが分かりにくくなることなどは、説明されなければわからない。
喉頭は、内部にある声帯という粘膜のヒダの位置に応じて「空気を通す(声帯が開いているとき)」「空気を振動させる(声帯が軽く閉じているとき)」「空気を止める(声帯がしっかり閉じているとき)」という3つの働きをする。喉頭がなくなればそれらの働きがなくなる。空気は、気管を直接に皮膚に縫合して増設した「気管孔」から行うので(あまり)問題ない。声が出せないことはすぐ分かるし、患者の最大の関心事である。しかしそれに紛れて「空気を止める」息こらえに関する説明がおろそかになりがちである。ただ、何でも説明すれば良いかと言えば、いっぺんにたくさん説明されても覚えきれないし理解できない。特に体の仕組みが変わることは実感がないだけに、言葉としては理解しても、実際にどうなるのかさっぱり分からないということがあるだろう。
今後、QOLの変化の説明の重要性が増すと考えられるだけに、どのように有効な説明をするか検討して行かねばならない。たとえば喉頭摘出術の場合ならば、術後の状態、人工喉頭などについて、実際に手術を受けた人に会うか、少なくともDVDを見る必要があるだろう。
しかし、医療者側としてはあまりショッキングな画像を見せることで患者が手術を拒否するのが心配なのも事実だ。私たちは多くの患者を見て、当初はショックを受けるが、すぐ乗り越えられることを知っている。しかし患者がそのショックを受けた段階で手術を拒否してしまうことが心配なのだ。ショックが消えるまでに長期間を要すれば、ショックが消え手術を希望した段階で、癌の進行により手術が不能になっている可能性もある。

どこまでを患者の自己決定に任せるのだろう。自己決定はその場の雰囲気、同席者の様子、その日の気分など様々な要因によって影響される。その影響をできるだけ小さくすることはできるだろうか。私はできないと思う。「中立な自己」というのは幻想だと思う。人の心は、その時の体調や、周囲との人間関係、今までの人生、社会状況などの総和であり、それらと別に「自己」があるわけでないと思うのだ。だから、体調が変われば考えることも変わる。先に合併症について説明されて、後に手術の効果について説明された場合と、先に効果、後に合併症の説明とで、手術を受ける気持ちが変わるのは自然だと思う。しかし、そのように誘導された自己決定でも自己決定と言えるのであろうか。言えないと困るのだが。こうなると医療の問題と言うより哲学の問題であるような気がする。

昨日は、子供が通学する高校のPTAの集まりで話をさせていただいた。前半に医療安全の話をし、後半には医療を取り巻く状況の変化を話し、最後にどのように医療と付き合うかの話をさせていただいた。

その中で「ユーザー社会」の指摘を取りあげた。これは、NHKラジオを聞いていた際に、京都の町家を研究している方が言っていたことだ(残念だが誰だか失念)。古い京都では住民の自治が発達しており、全国の集落でも程度の差はあれ自治が行われていたが、明治以降、コミュニティの運営を専門家(政治家)に託すようになって、住民の自治意識が薄れ、現在では政治に一方的に要求するようになっていると指摘していた。この現象を「ユーザー化」と呼んでいた。
確かに江戸時代以前には、教育・政治・治療などは自分たちの共同体がある程度行なってきた。読み書き算盤は寺子屋かもしれないが、職業教育や初等的な社会教育は家庭や地域で行ってきた。政治は寄り合いで話し合って行われ、治療も各家庭で行っていた。それを専門家に委託するようになったのは、明治以降で、特に委託の範囲が拡大したのは戦後であると思う。専門家に委託したほうが効率が良く、成果にバラツキが少ないためだろう。社会的な役割が分業化され専門化されるにつれ、共同体の成員(ここでは一応「住民」と呼ぼう)は社会の運営に直接参加することがなくなり、税金を納めて運営を委託する形式が広まった。住民は様々な「サービス」の「ユーザー」になったのだ。「ユーザー」となった住民は、対価(税金)を払っていることで運営者に対して一定の水準を求めるようになる。そこでクレーマー、モンスターペアレント、モンスターペイシェントなどの現象が生じたという考え方だ。
この考え方には一定の真理が含まれていると思う。なお、内田樹は『街場のメディア論』で、クレーマーやモンスターペイシェントが出現したのは小泉内閣の規制緩和や構造改革により医療に市場原理主義(グローバリズム)が持ち込まれたことが原因で、患者は「消費者」として自己の利益の最大化を目指すのが正しいとされたため、できる限り医療行為に協力せず、にもかかわらず最高の医療効果を要求する患者が生じたのだと分析している。

講演の最後に、医療人材の育成への参加をお願いした。医療者を「褒めて延ばす」こと、「子供のため、孫のための医療者を育てる」つもりで医療に臨むこと、そして、医療に対してどのような苦言、叱咤も歓迎するが、「ただし愛情を持って」やっていただきたいと、三点をお願いして終了とした。その後で司会のT氏が、「同じことが教育にも言える」と言ってくださった。実はそれは言いたかったが敢て言わずにとっておいたことだったのだ。T氏に感謝した。
私の子供が小学校に通っていたとき、隣のクラスの担任に若い教師が就いたことがある。優しいが、どことなく頼りない感じのする若者だった。担任になるのだから教員1年生ではないだろうが、まだ「新米」の部類の教師だったと思う。すると、隣のクラスの保護者の間で担任に対する批判が湧き上がったのである。「クラス経営ができていない。学級崩壊する」というような批判だ。「何でもっとベテランの先生を担任につけてくれないのだ」という文句であった。結局、その教師は担任を外され、教師を辞めたと聞いた。教師も育てるものだ。ベテランの教師ばかり揃えても、彼らが退職した後には何も残らない。教師を育てるのは大学や先輩教師だけではない。保護者と子供だって教師を育てなければならない。また、学級が崩壊するとしたらその責任は親にもある。
そんなことが頭にあったのだが、学校でPTAに向かって話すのには向かないと判断し、講演が長くなることを嫌ったこともあって、敢て触れなかったのだ。市民には医療者を育て、教師を育て、政治家を育てる責務があると考えている。

その後に慰労会があった。そこでは親の介護と、終末の迎え方が話題となった。同年代の保護者たちは、同じような問題を抱えている人びとが多い。そこで感じたのは、私たちにはロールモデルがないということだ。社会や医療が大きく変化している現在、自分の祖父母や親はロールモデルにはならない。私たちの老後の生活像を作るのは私たち自身だ。社会学者の上野千鶴子は『おひとりさまの老後』(法研)で、老後の生活像を描いているが、内田樹は『呪いの時代』(新潮社)で、以下のように批判している。
提唱されているコミュニティーは典型的な「強者連合」です。そのコミュニティーに参加できるのは、年収が高く、社会的地位があり、趣味がよく、イデオロギー的にまっとうな人に限られているからです。[中略]「おひとりさま」共同体のメンバーの誰かが破産したり、失業したり、病気になったり、変な宗教に入ったり、過激な政治思想にかぶれたりしたら、その人は出て行かなければならないということになる。[中略]
でも、弱者が発生した瞬間に自動的に排除するようなものを「コミュニティー」と呼ぶのはおかしくありませんか?(162ページから163ページ)

いずれにせよ、私たちは適切なロールモデルなしに自分たちの老後のスキームを構築して行かねばならない。私たちが本当に終末期に入ったときには、もう社会に働きかける力はないだろう。どのように老後を過ごし、どのように終末を迎えるか、その社会との関わりを考え、今から発信して行かねばならないと考える。

帰宅してから携帯が鳴った。聴衆として参加していた保護者たちが何人かで飲んでおり、お誘いの電話だった。再び外出するわけにも行かず、お断りした。残念だった。

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