瀬木は30年あまり裁判官を勤め、しかもかなりの地位にいたので、裁判所の内部をよく知っている。彼は自分を学者タイプと分類しているが、裁判所の社会に馴染めず、ストレス性の病気なども発症した上で最終的に退官した。だが、この本に彼が書いていることは恨み節でも、負け犬の遠吠えでもない。学者(法律の専門家)から見た、裁判所組織の分析である。

裁判所、裁判官批判の書物はこれまでにかなりの数書かれてきたが、左派、左翼の立場から書かれたものやもっぱら文献に頼った学者の分析が大半で、裁判所と裁判官が抱えているさまざまな問題を総合的、多角的、重層的に論じたものはほとんどない。本書においては、そのような事実を踏まえ、できる限り広い視野から、根源的かつ構造的な分析と考察を行うように努めた。(8ページから9ページ「はしがき」)

彼のこの言葉はこの本の性格をよく表している。彼の意図は成功したと言って良いだろう。

裁判所は、特に2000年以降、「役所化」し、係争を裁くのではなく「処理」するようになってしまったと瀬木は嘆く。処理を迅速化するため、裁判前に法務省と裁判所で事前の打ち合わせをしてしまうことまでがおこなわれる。これは「一種の事前談合行為」であり「裁判の自殺」であると瀬木は断じている(23ページ)。

彼は「良識派は上にはいけないというのは官僚組織、あるいは組織一般の常かもしれない(50ページ)」としているが、新藤宗幸『司法官僚』(岩波新書)でも指摘されていたように、もっとも問題が大きいのが最高裁判所の事務総局による人事支配である(瀬木は「人事による統制」と言うが、「支配」のほうがふさわしいだろう)。この本でも数々のパワハラ、セクハラ、情実人事事例が紹介されているが、そのようなことの横行が持続する根本原因が事務総局による支配であると言える。まず何より、裁判官の評価が能力によってなされるのではなく、いかに上司の命令に従うかによってなされていることが問題だ。組織の体質は事務総局を解体したとしてもすぐに変わるものではないのは明らかだが、少なくとも現在のような事務総局支配体制が続くかぎり、組織の腐敗は変わらないだろう。

さらに問題を大きくしているのが、事務総局の権力寄りの姿勢である。本来、司法は立法や行政を監視するべき立場にあるが、現在の裁判所は行政が円滑に行われることに腐心し、立法府には遠慮して異議を申し立てない。そのような裁判所のあり方を統率しているのが事務総局である。彼は次のような「ある学者のコメント」を紹介している。

「太平洋戦争になだれ込んでいったときの日本について、数年のうちにリベラルな人々が何となく姿を消していき、全体としてみるみるうちに腐っていったという話を聞きます。国レヴェルでもそうなのですから、裁判所という組織が全体として腐っていくのは、よりありうることだろうと思います」(51ページから52ページ)

瀬木は自分自身を自由主義者と規定しているが、裁判所は左派の裁判官を追い出しただけでは安心せず、自分の考えを述べる自由主義者の瀬木まで排除しようとした。瀬木は自ら退官したのだが、排除されたに等しい。

人事権を掌握していれば異分子の排除は容易である。しかし、組織は劣化する。組織の活性化のために多様な考えを持つものを入れようとしても、それは容易ではない。