雑誌「MMJ」(毎日メディカルジャーナル)に連載されている松村由利子の「からだの歌こころの歌」から、2017年4月号に掲載された59回「高齢者の食」について書きたい。この連載は、歌人の松村由利子が病気や医療に関連する短歌をエッセイ風に紹介するもので、毎回楽しみに読んでいる。今回のテーマ「高齢者の食」ではとりわけ心に響く歌が多かった。

出来たことが出来なくなつてゆくことに
    逆らひながら日々を生きをり

大盛を食べてゐたのに並を残す    
    加齢とはかういふことでもある
牛尾誠三

松村が言うように、牛尾は食べ残した食事を見つめ、ため息とともに自分が年老いたことを実感し、認めたのだろう。すでに老眼、顔のシワやシミなどに気づいていただろう。新たな「加齢」徴候の発見は、彼に追い討ちをかけつつ現実を認めることをさらに迫る。逆らいたいと思う。目の前にある丼を意地でも食べ切りたいと思うが、体が食べきることを許さない。彼の体が、彼の心に、現実を受け入れよと主張する。

何が食ひたい言はれで答容易ならず 
    食ひたいと思ふ物がないのだ
土屋文明

この歌は土屋が94歳のときに刊行された歌集に収められたもので、彼は100歳まで生きたという。何か食べたいものは無いかと聞いてくれる人がいた。それは敬老の日を控えた孫たちかもしれないし、土屋の食が細いことを雑談の話題にした介護施設の職員かもしれない。少なくとも土屋は孤独ではなく、彼の意向を問うてくれる人がいる。

そして土屋は戸惑いの表情を浮かべるか、あるいはしかめ面をして、答えることができない。食べなければ命を維持することができないことはわかっており、空腹も感じることは感じる。ただ「これが食べたい」という具体的な「食欲」は湧かない。この光景はおかしくもあり、切なくもある。

土屋は食べたいと思うものがなくても差し出されたものを食べつつ、100歳まで生きたのだろう。