残虐な映像を公開するかどうかは、つねに論争になる。ソンタグが挙げる例は、2002年の初めにカラチで誘拐され殺害された米国人ジャーナリストのダニエル・パールのビデオを、ボストンのある週刊新聞が公開したときのものだ。

激しい議論が巻き起こり、パールの未亡人にはこれ以上の苦痛から逃れる権利があるという主張と、適切で読者に見せる権利があると判断するものを、新聞はネットで公開する権利があるという主張が真っ向から対立した。(67ページから68ページ)

彼女は「どちらの側も三分半の恐怖を、殺人が実演されるポルノ映画並みに扱っていた」と指摘する。このビデオには続きがあり、政治的な非難が繰り返し表明され、最後に脅迫と要求リストがあったのだという。

パールを殺害した勢力がもつ独特の悪意と妥協のなさと対決するためには、このビデオを(もしそれだけの勇気があるのなら)最後まで見るのは価値のあることだと示唆しているのかもしれない。(68ページ)

彼女は、当然ビデオを最後まで見たのだろう。彼女はなぜ見たいと思い、何のために見たのだろう。研究のためだろうか。私は見ることを躊躇すると以前に書いた。しかし、殺害の事実がすでにあり、ビデオを見ている多くの人がすでに他にいるときに、自分が見ないことにどのような意味があるのか。また自分が見ることで、何が変わるというのか。

私が、ビデオを見たくない、見てはいけないと思うのは、半ば本能的な反応で、理屈で考え出した結論ではない。だから、自分のことながら理由をうまく説明できない。だが、それをあえて説明するとすれば、おそらく私の頭の中にはビデオを見ないことが、ビデオの内容に反対する姿勢をより明確に示すことになるという考えが潜んでいるのだろう、ということになる。ビデオを見ることでダーク・エロティシズムを感じてしまうようなことがあれば、その後私は残虐行為を自信を持って非難できなくなる、そのようにも思っているのだろう。