「犯罪」という言葉をもっとも広い意味で使えば、この「事件」は一種の犯罪であったと思う。多くの人がささいな間違いを犯し、それがこの事件として結実した。間違いの中に、意図的に正しくないことをしようとしておこなったものはないだろう。もしかしたら、私が間違いだと指摘しても当事者は間違いだと認めないかもしれない。また、不可避的なことであって間違いとは言い切れないこともある。

まず、医師に過失がないのに過失があるような事故調査報告書を作成したのが間違いである。これについては昨日も触れた。また、その報告書を真に受け、きちんとした検証もせず立件した警察・検察にも間違いがある。2006年4月14日に、この事件の捜査にあたった富岡警察署が医師逮捕について福島県警本部長賞を受賞し、これに対して多くの批判が寄せられた。功名心からの立件だったのだろうか。

さらに警察の発表を鵜呑みにし、過失を前提として報道をおこなったマスコミにも誤りがある。この本には福島民報の記事が多数引用されている。福島民報は自社の報道内容と判決との食い違いをどのように総括したのだろうか。あるいはしていないのであろうか。現在の同社のホームページは原発事故の記事ばかりでよくわからない。同社を含めたマスコミは東日本大震災後の双葉病院について、福島県が発表した虚偽情報をそのまま報道し、県は病院を運営する博文会から提訴された。同社は過去の経験から学んでいるのだろうか。

お産はたしかに安全になった。だが死亡率がゼロではないことも事実である。お産の危険性をしっかりと伝えてこなかった医療側にも問題があると思う。危険性を訴えると、逃げだとか訴訟対策だと言われることがある。医療側の自己検証能力が高くないと思われているからだろう。医療界の自律能力を社会に示すことは、医療界の責務である。