高橋泰「医療・介護の提供量が少なくなると、老い方、死に方はどのように変わるのか」について、もう少し書いておきたい。両地域の状況を説明した上で「あなたはどちらのタイプの老い方、死に方をしたいですか」と質問すると、「[著者が]驚いたことに、ほとんどの人が大三島型を希望されます(113ページ)」なのだそうだ。それは当然だろう。驚くことではない。ピンピンコロリを希望する高齢者は多い。問題は、ピンピンコロリには達観が必要だということだ。急に倒れたときに救急車を呼ぶようではだめだし、食欲がなくなってきたときに病院を受診するようではだめだ。

「達観」は「覚悟」と言い換えてもいい。著者は最後に以下のように書いている。
大三島型の社会が不可避だとすれば「できる限り自立を続ける覚悟と、食べられなくなった時に、自然死を受け容れる覚悟」を持つことが重要になります。このような覚悟ができているならば、「適切に医療・介護の提供量が減らされる」ことは、自分の望むような老い方、死に方ができる可能性を逆に高めるので、必ずしも悪い話ではありません。(113ページ)

私も「覚悟」という言葉を使うことがあるが、あまり好きな言葉ではない。人を追い詰める響きがあるからだ。私は「諦め」「諦念」という言葉の方が好きだ。「諦め」には頽廃の香りを感じると言うのなら、「達観」が良い。しかし、「達観」にはやや敷居の高い感じがある。

いずれにしても、医療の供給が減ることが医療を人びとの手に取り戻す機会となることは間違いない。また、介護力の減少がピンピンコロリへの道を開くことも間違いない。ただし、自分の遺体が長期間発見されないことを望む人はいない。独居高齢者の死亡を早期に検知するシステムの充実は、非常に重要な課題だ。