最近「戦略検討フォーラム」(http://j-strategy.com/)というサイトを知った。その「フォーラム」に2016年1月8日付けで小松秀樹による表題のような記事が掲載された(http://j-strategy.com/forum/1726)。小松が「10年先、医療・介護サービスの深刻な提供不足が生じるのではないかと危惧している」という記事だ。

彼は「場合によっては社会不安になりかねない。具体的には、要介護者の退院先が見つからなくなる、急性期医療を必要としている患者が入院できなくなる、高齢者の孤独死が激増する」と続ける。

要介護者の退院先は自宅である。自宅に介護力が無い場合は、訪問看護・介護を受ける。身体的理由により充分自立した生活が送れない高齢者を収容する施設は、その頃にはまったく足りないだろう。現在でも首都圏では不足気味なのだ。あと10年で、増加する高齢者の分まで充足するのは難しい。現在、地方の法人が首都圏の施設不足に目をつけ、首都圏での展開を始めている。東京都の地域医療計画が混乱するとして、地元の医療法人などは警戒感を強めている。たしかに東京は市場として魅力的なのだろうが、高い地価さえ払えれば建物は建設できるとして、地元で労働力を確保することは困難である。では地方から連れて来ればいいかというと、物価水準の違いなどもあり、話はそう簡単ではないだろうと踏んでいる。地元の法人が恐れるのは職員の引き抜きだろう。そうだとすれば、介護労働力の不足が変わるわけではない。

急性期医療を必要とする人が入院できなくなる。しかし、その「急性期」や「医療を必要」という判断の基準が変わる。変わらざるをえない。寝たきりの高齢者の肺炎や食思不振は治療の対象とはならない。10年後の急性期病床数では、労働力世代の急性期疾患に対応するだけでその大部分が埋まってしまい、増え続ける高齢者の全体を対象にできないのだ。しかし、それは悪いこととは言えない。社会の考えの方の問題だ。私は小松のような表現はかえって不安を煽り、良くないのではないかと思うほどだ。

高齢者の孤独死は激増する。ただし、定義によっては孤独死は増えない。現在、孤独死の定義は無い。孤独死を「誰にも看取られずに死亡し、死後1週間以上経って発見されたもの」と定義すれば、ITを駆使してさまざまな見守りが実用化されている現状から考えると、死亡しても2~3日で発見できるような仕組みが普及する可能性が高い。ひとりで死ぬのは「当たり前」だが、それを「孤独死」と呼ぶなら激増は確実だというにすぎない。老老介護は核家族の終末型である。その一方が死亡すれば残った方は「独居老人」となる。核家族を選択したときから「死ぬときはひとり」と覚悟すべきだ。

これらは単純な数学で計算できることで、「確実な未来」というより単なる「現在の帰結」である。すべての現象の「過去」は「現在」の中にある。