小野寺のがん医療に対する不信感について考えてみたい。

昨日のブログの最後に、小野寺の書き方から、病院の収益のために抗がん剤治療が行なわれていると受け取れるということを書いた。ほかにも彼の不信感を示唆する記述がある。たとえば、通常の抗がん剤がまったく効かなかったため、担当医から新薬の治験を勧められ、3種類の新薬治験を受けたものの、効果がなかった症例について、以下のように述べている。
女性はホスピスに来てから、新薬治験を受けなければよかったと何度も嘆いていましたが、その通りで、治験を受けなければ、普通の生活を1年間送れたのです。

担当医は、研究費名目のリベートをもらっていたのか、学会発表のネタにしようとしたのか分かりませんが、患者に対する愛情がまったくないとしか言いようがありません。(99ページ)

何ともやりきれない書き方だ。だが、初めから効かないとわかって投薬する医師がいるだろうか。私はリベートや学会発表のために効きそうもない化学療法を行なう医師はきわめて少数派だと思う。この担当医も、治療しないという選択肢がはばかられたので治験を勧めたのではないか。新薬に過剰な期待を抱いているのは患者だけではない。医師も、何かにすがりたい想いから、あるいは製薬会社の宣伝文句に乗せられて、過剰な期待を抱いていることがあるのだ。

さらに言えば、治験の過程を経なければ、どんなに良い新薬であっても世に出ることはない。動物実験で有効であることがわかっていても、人間に有効かどうかは実際に患者に投与してみなければわからない。それが新薬開発の宿命なのだ。誰かが治験を受けなければならない。有効性が100%ではない以上、薬が無効だった患者は多数存在する。

このような事情を著者は充分心得ているはずだ。それでもなお、がん治療に突き進む臨床医に対して「敵意」を示すのは、自制的な(あるいは「分別のある」と言ったほうが正しいかもしれない)がん医療が彼の思い通りに行き渡らないもどかしさからかとも思う。

しかし、このような敵意は、医療を外から眺める人びとにとって不快なものでしかないだろう。著者の意見に影響される人の心には、著者の正しさが残るのではなく、医療不信が残る。著者自身さえも自分が引き起こした疑念の対象になってしまうのだ。著者の言いたいことがわかるだけに無念である。