島崎謙治『医療政策を問い直す―国民皆保険の将来』(ちくま新書)を読了した。著者らしい、非常に緻密な議論を展開した本だ。現在までの医療政策の歴史を概観し、現在の医療政策のありようを把握し、将来の医療政策を考える手がかりを整理するのに絶好の本だった。

新書版ではあるが専門書と同じ手応えを感じる本だった。この本のテーマとして世間で扱われていることは細大漏らさず言及しておきたいという著者の熱意が感じられた。こまごまとした意見や提案も網羅的に取り上げられ、それに対して著者の意見を明確な言葉で述べている。意見も月並み・通り一遍のものではなく提言として意味のあるものを目指している。この本の読者に自分の考えの基本となるところを伝えておきたいという気持ちが感じられた。

明確に意見を述べることは勇気がいる。意見の一貫性が保たれねばならないということも圧力になる。人がそのときどきて思いついたことは移ろいゆく。それは当然のことだ。しかし、書作や論文として残したものの主張が移り変われば、読者は混乱し、その著者の主張は受け入れられなくなる。すべての論文・論説を貫く思想、文学的表現を借りれば通奏低音のような流れが求められる。これは論文を自分のために書くのか、世に問うために書くのかという姿勢の違いにも関係することだ。研究の末に得たものは堺に還元する必要があり、得た知見を論文にするのなら、読んだ人が理解し、学ぶことができる論文でなければならない。もし論文と自分のために書いているなら、そのような配慮は必要無い。この本には「発信しよう」という意図がたしかに感じられる。

人は間違う。医療安全の世界では「To err is human」という言葉が有名である。同名の書籍の題名は「人は誰でも間違える」と訳されているが、この成句は「間違うは人の常」と訳されることもある。元の警句でこの言葉と対になるのが「to forgive devine」である。この両方を訳せば「間違うことはいかにも人間らしいことだ。許すことは神々しいことだ」と訳せる。原文の調子を重要視し「過つは人の業(わざ)、許すは神の業(わざ)」「誤りは人の常、許すは神の常」など、数々の訳が工夫されているが、どれも原文の「間違うのはとても人間らしいこと。でもそれを許すのは神様がなさるようなすばらしいこと」という、許すことを誉め讃える感じが失われてしまっている。

島崎が扱っている題材はこの10年から20年の「近未来」である。当然一部の「予想」については「回答」が出る。自分の予想が当たるようにと心の底で願わないのだろうか、予想が大きく外れたとき、彼はどのような論文を書くのだろう、と私は思わず心配してしまう。おそらく学者は私とは違った視点に立っているのだろう。

予想が外れた場合、それはひとつの経験として蓄積されるのだ。株屋の予想が外れたら単なる損だが、学者の予想が外れた場合、それは知識・経験であり、将来の肥やしになる。私はそこまで、金なり学識なりを賭けて予想をしているわけではない。その真剣味の無さが学者に劣るところなのだろう。