高橋源一郎『ぼくらの民主主義なんだぜ』(朝日新書)を読んで、目を覚まさせられた。それまでの私は、眠って夢を見ていたのだと思う。夢の中で私は水の中を泳ぐ魚だった。口を開けるとプランクトンと酸素を含んだ水が流れ込む。私は口をパクパクさせながらゆったりと泳ぎ回っていた。もちろんどこに行けばプランクトンが多いかを考えた。しかしその思考は半自動的で、考えは容易に湧いてきた。苦しんだ末に考えを生み出す必要などなかった。

目を覚ました私は「社会」の中にいた。そこでは動き回るのに意識して体を動かす必要があった。食べ物を探し、水を探して長い距離を歩く必要があった。必要な知識を手に入れるために、こまめにあちこちを覗いて回る必要があった。私は自分の体と心を維持するのに払わなければならない努力の多さに呆然とした。

私は以前から「すべての本を読むことはできない(すべての知識を自分のものとすることができない)」ことを嘆いている。映画『薔薇の名前』に登場する修道士ウィリアムは、あたかもほとんどの本について知っているようだった。舞台となった中世にどれほどの本があったのかは知らない。しかし、写本によってしか複製が作れなかった時代には、それほど多くの本は存在しえなかっただろう。その千数百年前、紀元前300年のアレクサンドリア図書館の司書は、70万巻と言われる蔵書のみならず、おそらく世界中の書物に通じていたのだろう。もちろんその「世界」とはギリシアやエジプトを中心とした世界であり、中国文明などは含まれていなかったのかもしれないが。

現代では流通する情報は膨大である。日本語の情報も本や雑誌だけではない。インターネット上のブログがあり、ウェブページがあり、動画がある。それらに満遍なく目を通すということは、不可能なことというより考えることすら無意味なことになっている。自分に必要な知識を得るのに、すべての情報に目を通す必要はないという声が聞こえる。たしかにそうだ。しかし、目を通してもいない情報が必要かどうか、どのようにして知るのだろう。

高橋が引用元として挙げている「中央公論」「一冊の本」「世界」「現代思想」「すばる」「POSSE」「週刊東洋経済」「宣伝会議」「科学」「Voice」「現代の理論」「アトモス」「文藝春秋」「群像」「月間フラワーズ」「のらのら」「季刊地域」などの雑誌のほとんどを、私は最近読んだことがない。名前すら聞いたことのない雑誌もある。私には雑誌を読む時間がない。テレビを見る時間は朝食のときだけで、ラジオを聞くのはたまに通勤に自動車を使ったときだけだ。高橋と私ではアクセスする情報の幅と質に大きな開きがある。そしてこの本で私は高橋がアクセスした情報のエッセンスに触れることができ、目を覚ました。

刺激的な情報が詰まった本だったが、ここで引用できないものが多い。と言うのも、私が感銘を受けた文の多くは引用された文であり、このブログでは孫引きは避けたいと思っているからだ。だから私は引用文献として掲載されている単行本を端から入手して読もうと思っている。本を読める時間に制限があり、読みたいと思う本、読むべき本が堆積していく。しかし、読む必要がある本であったかどうかは、読了してみないとわからない。