文科省の愚かしい通達について調べていたら、安渓遊地のブログに行き当たった(http://ankei.jp/yuji/?n=2110)。安渓は文化人類学者で、現在は山口県立大学国際文化学部教授として地域学を担当している。

タイトルに挙げたブログポストで、彼は文化人類学が「役に立たない」といったん言い放った上で、次のように書いている。
(ことばが通じないと知ってすなおにもどったわたし):人間は、みんなちがってみんな変。このことを実感することで、じぶんたちだけが正しい、という独善からめざめ、戦争につながる道を歩まないために心の中の歯止めをかけるために役立つのです。We Are Right(われわれは正しい)を略してWAR(戦争)というのですよ。だから、平和の根本を深く学ぶための学問です。

文化人類学に戦争抑止力がそれほどあるかはわからないが、社会学の本でも「社会学は常識を覆すためにある」と書いてあった(進藤雄三、黒田浩一郎:編『医療社会学を学ぶ人のために』(世界思想社))。人文社会系の学問は知識の相対化を目指しているようだ。理科系の学問が自然現象の解明を中心的課題としているのに対し、文科系の学問は私たちが考えたり行動したりする理由、「なぜそう考えるのか」「なぜそういう行動をするのか」を解明する学問だからなのだろう。周囲の意見や考えに安易に同調せず、意見や考えの根源にあるものを分析しようと常にしていれば、たしかに戦争をする気にはならないと思える。

学問は、与えられた価値に疑問を抱き、分析したうえで理解しようとすることから始まる。これは理科系でも同じである。ガリレオは落下速度について、「重いものは早く落ち、軽いものは遅く落ちる」という通念に疑問を持ち、ピサの斜塔で実験をしたという。科学的な大発見は、常識を疑ったことから始まっているものも多い。

そんな大それた話でなくても、たとえば医師は学生時代に自分の体で得た所見しか信用してはならないと教わる。患者が持ってきた紹介状に詳しい所見が書いてあったとしても、それをそのまま信用してはならない。かならず自分ですべての所見を取りなおさねばならない。ましてや、患者の言うことをそのまま鵜呑みにするなど、もってのほかだ。

そのような学問は、目先の問題を解決してくれない。金が儲かるわけでもない。悩みが消えるわけでもない。困った人を助けるわけでもない。短期的な、即物的なことには役立たない。そのような学問が役立つのは、その人の人格形成においてであろう。