人はかならず死ぬ。もし死因を選べるとしたら、私は何を選ぶだろう。「何でもいい」と言いたいところだが、少し怖い気もする。

以前は自分は癌で死ぬのが良いと思っていた。昔は緩和の技術が発達していないので、癌は治療してもしなくても苦しい病気だった。治療は拡大手術が中心で、癌を切除することができても、後の障害が大きかった。そのように「障害者を作る医療」をおこなっていた自分の贖罪の意味でも、自分は癌で死ぬべきだと思っていた時期がある。

ところが現在、癌は苦しい病気ではなくなりつつある。癌で死ぬことを望む人もいるほどだ。死期がある程度予測できることもありがたい。老後の資金を使い切ってしまっても、後で困る可能性はほとんど無い。このブログでも癌は苦しくないという趣旨の本を何冊か紹介した。それならば、私が癌で死んでも償いにはならないし、また私には緩和を拒否するほどの根性もない。

高齢者の死因として挙げられるのは、「心疾患」「肺炎」「悪性新生物」「脳血管疾患 」「老衰」などだ(http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/suii09/deth8.html)。悪性新生物とは癌のことで、脳血管疾患とは脳梗塞や脳出血などだ。「認知症」は、それ自体で命を落とすことが無い疾患なので、死因に挙がってこない。

老衰を病名として認めない考え方もある。老衰とは不整脈による心停止であったり、肺炎による呼吸不全だったりと、ある意味で雑多な状態の集合である。「症候群」と言ってもいいかもしれない。そこで、「老衰」と括ってしまわず、死に導いた詳細な原因を「死因」とするのが正しいという考え方だ。私自身が昔、死亡診断書の死因は「老衰」ではいけないと習った。

しかし、現在では老衰を死因として認めることがずいぶん広まった。厚生労働省の統計にも「老衰」があるので、立派に市民権を受けているのだろうが、批判がなくなったわけではない。

少し考えてみよう。死ぬときには死因があるのは当然なのだろうか。まだまだ元気で当然もっと生きるはずだった人が死ねば、そこには特別な原因があるだろう。それを死因と呼ぶのはきわめて妥当である。しかし、人間が動物としての限界まで生きて命を終わらせる場合、死の原因は「生物だから」であり「人間という種だから」ではないのだろうか。もちろん食事が摂れなくなって衰弱したからとか、心臓の機能が徐々に低下して心不全を起こしたからというような説明はできるだろう。しかし、なぜそれが起こったかといえば、私たちが「生き物」だからであり、生命は有限だからである。本来の「死因」は「生命が有限であること」ではないのか。それが「老衰」の意味ではないのか。

高齢者の死因の第1位が「老衰」になることを目指すのも良いかもしれない。第2位としてふさわしいのは「高齢者の友」である肺炎だろう。第3位は「悪性新生物」だ。生物は長生きするとどうしても癌の発生が増える。これは細胞増殖の過程が抱えた欠点からくることで、防ぎようがない。

私の場合は老衰になるまで生きなくてもいい。「不慮の事故」や「自殺」は周囲に迷惑をかけるので、やはり肺炎か癌がいいということになる。