福岡伸一『できそこないの男たち』(光文社新書)を読了した。『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)を読んだときは彼の文章に慣れず、読むのを中断したのだった。福岡の経歴や本の題名から生命科学の入門書、あるいは科学哲学の本だと思ったのだ。ところが、話の運びは文学的で、主題を直接語ることがない。違和感を感じて読むのをやめてしまった。その後、また読む気になって最初から読み直したら、面白く読めた。

その本は、教科書の年表などに1行で記述されている科学的業績の裏には数多くの隠された真実があるという話を語った本だった。最初に取り上げられているのは野口英世である。私は野口の「業績」が科学的に見て怪しいものであるということはよく知られたことだろうと漠然と思っていたが、考えてみれば日本は肖像を札にしようとするくらいなのだから、まったく逆で、英雄視している人が多いということなのだろう。そんな世間に遠慮したからなのか、福岡は野口の行為の非倫理的側面には直接言及しなかった。それが当初、私には解せず、違和感の元になった。

ワトソン、クリックの二重螺旋の「発見」についても、彼らの「業績」が他の研究者から盗んだものである可能性が示唆されていた。面白い本だった。

それに比べて、この『できそこないの男たち』の文体はずっと説明文に近いが、内容には私的な体験が多く含まれ、感情的な文も多い。福岡は先のことを考えず、荷物も金もあまり持たずに渡米した。そこでの生活はやや自虐的に描かれている。彼は、大学の内部や周辺で英語が通じたため、何とかなると思ったが「みんながそれなりの配慮をしてくれていただけだった」と気づく。
ひとたび街場に出ると容赦はなかった。英語が満足に話せない人間は、ここニューヨークでは不法移民か難民のような扱いを受ける。私は、スーパーのレジ係の、年端もいかない女の子にまで蔑みの目で見られた。彼女は、買い物カゴを持った私に、品物を出して台の上に並べろ(take them out)と言ったのだ。しかし私にはそれが聞き取れなかった。立ち往生する私を見かねて、後ろに並んでいた女性がやれやれという態度で、代わりにカゴからものを取り出してくれた。私はすごすごとスーパーを後にするしかなかった。

私は結局、以降、3年間ほどアメリカで恥の多い暮らしをした。(19ページ)

3年間で英語は上達しなかったと彼は述べている。脳がもう固まってしまっているのだと言う。