ヒトは近親交配を繰り返すと遺伝病の発生が増加する。近親婚がおこなわれた場合は発達障害の子どもや奇形のある子どもが生まれる場合が多い。また逆に、天才が生まれることもあるという。現在の日本は人口が密集している上に交通が発達しているので、近親婚を避けるのは容易だが、明治時代以前の日本では、孤立した集落が珍しくなく、そういった集落では近親婚が避けられなかった。そのような集落では、実際に発達障害者や先天奇形を持って生まれた人が多く、時に天才が出現すると、その人が集落の采配を一手に引き受けて生活を維持していたという話を読んだことがある。

外部との交流の少ない集落では、「外からの血」を入れることが集落の遺伝的環境を悪化させないために非常に重要だった。Ryan、Jethá『Sex at Dawn』(邦訳はライアン、ジェタ『性の進化論』(作品社))では、ヒトが本能として新規な人間に惹かれることを指摘したうえで、採取と狩猟により生活していた石器時代のヒトの集団では、性的関係が集団同士の関係を円滑に保つ働きをすると同時に、遺伝的環境の整備にも役立っていたと推測されている。

網野が「解説」で指摘した観音堂での歌垣は以下のようなものである。
対馬には島内に六つの霊験あらたかな観音さまがあり、六観音まいりといって、それをまわる風が中世の終り頃から盛んになった。男も女も群れになって巡拝した。佐護にも観音堂があって、巡拝者の群れが来て民家にとまった。すると村の若い者たちが宿へいって巡拝者たちと歌のかけいあをするのである。節のよさ文句のうまさで勝敗をあらそうが、最後にはいろいろなものを賭けて争う。すると男は女にそのからだをかけさせる。女が男にからだをかけさせることはすくなかったというが、とにかくそこまでいく。鈴木老人はそうした女たちと歌合戦をしてまけたことはなかった。そして巡拝に来たこれというような美しい女のほとんどと契りを結んだという。(31ページから32ページ)

この本の刊行は1960年だが、「対馬にて」の元になった調査が行われたのは1950年頃、雑誌「民話」に発表されたのが1958年頃らしい。対馬でこのような風習があったのは明治時代までのことである。おそらく江戸時代以前から続いていたのだろう。まさに性が集団同士のアイスブレーキングのメディアであり、性的関係が遺伝環境悪化を防ぐ手立てでもあったのだ。