彼は日本人とは明治政府によって「作られた」ものであると言う。江戸時代は身分制度の力が強く、教育もコミュニケーションも発達していなかったため、非常に流動性・可塑性の少ない社会だった。
江戸時代は、非常に安定した時代だった。だって、自分の一生は生まれた場所と親の身分で決まってしまうのだ。農村に農民として生まれれば、生まれた村で農民として生きていく以外の選択肢はほぼない。そもそもそれ以外の選択肢があるなんてことを知らないで、彼らの一生は終わっていった。自分探しなんかしなくていい。競争もあんまりない。衝突もあんまりない。貧富の差も固定されている。

為政者(江戸幕府)としても、こんな楽な仕組みはない。選挙もないし、リコールもない。みんな国や政治のことなんて何もわからない。だから少数の支配者が国を思うように支配できたのだ。(126ページ)

日本の暮らしはたしかにそうだったのだろう。ただし、「こんな楽な仕組みはない」のが本当だったのかどうかは、私にはわからない。幕府内部の権力闘争もあったし、各藩との「外交」にも大変な努力が払われた。もちろんそれらを「しょせんコップの中の嵐」と言ってしまえばそれまでなのだが、古市の切り取り方は、大変わかりやすくおもしろいとはいえ、いささか気になる。

それはともかく、このような江戸幕府の体制は外部からの侵略や戦争に弱かった。人民は、自分たちの命や共同体を守ろうとすることはあっても、日本を守ろうという観念が希薄だったからだ。
たとえば、欧米連合艦隊と長州藩の間で起こった下関戦争でも、農民や町民が戦争に協力することはなかった。対外戦争ではないが、戊辰戦争では会津城下の商人、職人など各地の民衆がさっさと戦場から逃げ出したという。(127ページ)

民衆にとって戦争は武士たちが勝手に起こす迷惑な騒動であったようだ。そのため、明治政府は日本国の体制を整備すると同時に、支配地域に暮らす人々を「日本国民」として教育し、再編成したというのだ。共通語としての「日本語」が考案され、「日本の歴史」が編纂され教育された。
僕たちは学校で2000年前の佐賀県にあったちょっと大きな村のこと(吉野ケ里遺跡)や、1300年前に起こった奈良県での兄弟げんか(壬申の乱)や、400年前に部下に裏切られたおじさんの話(本能寺の変)を「日本の歴史」として教わる。身分も地域も違う出来事を、その当時の日本領土を基準にして、乱暴にパッケージしてしまったのだ。

そして「日本文化」も作らなくちゃいけない。現代を生きる僕たちは古今和歌集も能も歌舞伎も「日本文化」だと思っているが、古今和歌集は天皇家のプライベートアンソロジーだし、能は室町期の武士文化だし、歌舞伎は近世庶民文化だ。それらをひっくるめて「日本文化」ということにしてしまったのだ。(131ページ)

『古典日本語の世界―漢字がつくる日本』で漢文について読んだ際にも、学校で教育される日本文化が非常に偏ったものであることに気付かされ、ブログにも書いた。私たちは辞書や教科書など、権威を後ろ盾とした書物の記載を無条件に信じてしまう傾向があるが、それらも特定の人物がある意図を持って書いたものであることを意識して、記述を相対化することが重要であると思う。