下村健一『マスコミは何を伝えないか―メディア社会の賢い生き方』(岩波書店)を読了した。下村はTBSの報道局勤務を経てフリーとなったジャーナリストである。2010年からの2年間は内閣広報室審議官も勤めている。本書はマスコミが伝えないことを掘り起こして伝える本ではなく、報道の限界を考える本である。

第1章は「報道被害はなぜなくならないのか?」で、伝える側のマスコミと受け手の社会に存在する構造的な問題を取り扱う。第2章以降は下村が考える解決への手がかりを述べたもので、第2章「マスコミ自身による解決の道」、第3章「自らが発信する時代へ」、第4章「メディア社会を賢く生きるために」と、マスコミ自身の在り方を変える方策、市民メディアによる補完、受け手の側の社会のメディアリテラシー向上による対策が述べられている。

私はマスコミに対して根強い反感と不信感を持っている。しかし、マスコミに友人がいるのも事実で、彼らが真面目に仕事をする人間であることも知っている。なぜ真面目な人間が勤めるマスコミが、総体としては反感の対象となるように動くのか。世の中によくあることと言ってしまえばそれまでなのであるが、本書はその不一致を丁寧に説明するだけではなく、下村が長年かかって呻吟しながら考え出した対応策を提示しており、非常に好感が持てた。

まず彼の謙虚さに好感を持った。もちろん、言葉だけで謙虚さを装うことはできるが、これが心からの発言であることは読み進めればわかる。
この仕事を始めてから四半世紀、私の報道で傷つけられた人は、どれほどの数に上るのか分かりません。ですからこの章は、「私だけが理想的な報道をしていて、他の駄目な報道を断罪する」という立場で語るのではありません。むしろ、加害体験を重ねてきた者だからこそ分かる《報道被害発生のメカニズム》を、自責と自戒の念を込めて証言したいと思います。(3ページ)

彼は発生のメカニズムを(1)アンバランス報道、(2)あいまい報道、(3)誤報、(4)取材すること自体の加害性に分類している。報道のアンバランスは、注目を浴びることのみを報道する姿勢、ニュース伝わりやすさを重視するための「平明化」、報道テーマの絞り込み、バッシングによって起こる。これらすべてに実際の報道例と、それによってもたらされた報道被害が説明されている。

中でも印象に残ったエピソードが、2005年4月に中国で起こった「反日騒ぎ」の報道だ。中国に取材に行ったマスコミは、騒いでいる人々を撮影する。実際は騒いでいる人々の周りには傍観する人々がおり、その外には日常の暮らしがあるのだが、それを撮影してもニュースとしての価値がないので、撮影しない。そのため、日本のテレビで放映される映像は騒ぎの映像だけになる。たしかに思い返せば「中国全土で反日の嵐が吹き荒れている(7ページ)」という印象だった。

そこで下村は自分が担当する番組で「デモに参加せず、大使館に向かって石を投げていない中国人たち」も取り上げた。番組の視聴者からの反応は、中立的な見方ができたと概ね好評だったが、取材に応じた中国人たちから強い抗議があった。
「自分たちだって、大使館に物は投げないが、最近の日本の中国に対する態度には、いっぱい言いたいことがあるんだ。それが今日の放送では、まるで反日の示威行動を起こしていない中国人は、日本に対して何の不満もないいかのように単純に伝えられちゃったじゃないか。自分たちは暴力行為には反対だけれども、「でも日本の皆さん、考えてください」と言いたいことはいっぱいあるんだよ。その部分をなぜ伝えてくれなかったのか」―というように、とても強く責められたのです。(10ページ)

彼がもらった放送枠は8分だった。その中にすべてを収めきれなかったという事情がある。また、レポートの続編が放送できれば結果はまた違ったろう。ただ、彼にはその機会は無かった。