東大話法とは何なのかについては、「東大話法規則一覧」という表があるので、そこから最初の9つを引用したい。
規則1 自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する。
規則2 自分の立場に都合のよいように相手の話を解釈する。
規則3 集うの悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事をする。
規則4 都合のよいことがない場合には、関係のない話をしてお茶を濁す。
規則5 どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話す。
規則6 自分の問題を隠すために、同種の問題を持つ人を、力いっぱい批判する。
規則7 その場で自分が立派な人だと思われることを言う。
規則8 自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実態化して属性を勝手に設定し、解説する。
規則9 「誤解を恐れずに言えば」と言って、嘘をつく。

規則は20まである。ほぼすべて安冨が東京大学で仕事をする中で発見し、確認したものであるが、一部にブログなどから抽出したものもある。このように整理すると、福島第1の事故後もいい加減な発言を繰り返していた「原子力の専門家」たちの言動のパターンが、たしかによくわかる。彼らの発言や態度を(私のように)個人の不実に帰することなく、現象として分析し、理由を探ろうとするところが安冨の学者らしいところだろう。安冨が言うように、これは東大に蔓延しているだけでなく、社会の上層部にしっかり根付いているように感じられる。

私が高校生の頃、私の周囲では「評論家的態度」を嫌悪する風潮が強かった。その嫌悪は、それ以来私の中に根付いており、今でも「対案のない批判」や「自分の考えを明らかにしない評論」には強い反発を感じる。「自分の考えを明らかにしない評論」とは、ある問題について「自分はこう思う」ということを明らかにしないまま、その問題についての他人の発言についてあれこれ論評する態度だ。今回そこに安冨の分析を加えることができたので、より自分の考えを明確にできるようになった。

私が嫌っていた話し方と「東大話法」には共通点がある。自分の信念を明かさず、自己の立場からの発言に終始する態度は「規則1」だし、評論家的態度とはまさに「規則8」だ。私が原発事故後の「専門家」たちの発言に感じていた苛立ちや怒りはこれらの「規則」により見事に説明されているように感じられる。

本書では「東大話法」について、実例が使い手の実名とともに挙げられている。批判する場合に名前を伏せて批判している本が多く、フラストレーションが溜まることも多いのだが、本書は実名なので気持ちがいい。別に実名が挙げられたからといって、その批判を鵜呑みにするつもりは無い。しかし、挙がっている名前を見て、私が何となく合わないと感じていた人々だったので、妙に納得がいった。

原子力村の「御用学者」たちの他に名前が挙がっているのは、池田信夫と香山リカである。池田はこのブログでも取り上げたことがあるが、一時私は彼のブログを続けて読んだことがある。私が読んだ部分で述べられていたのは、ウラン埋蔵量や、プルトニウムによる水爆製造などの「ウラ話」的な話だが、彼の専門領域外の話が、典拠の記載もなく断定的に述べられていた。内容があまりにできすぎている感じがして、ウラを取らねばならないと思い、いろいろと文献を当たったのだが、話が広範囲なこともあり、確認が取れないでいる。彼のブログの記事を元に、このブログの原稿も複点書いたのだが、根拠のない話を取り上げるわけにはいかないのでそのままボツになっている。いずれ少しずつ疑問点を正して整理しなければならないと思っているが、やはり池田には注意しなければならないことを再認識し、原稿をボツにしておいて良かったと安堵している。

香山はこのブログで取り上げたことはないが、ブログを始める前に彼女の本を読んでいるし、彼女のブログを読んだこともあり、放送を聞いたこともある。彼女はユニークな切り口で社会現象を分析する。話はわかりやすく、面白い。しかし、私は何とはなく彼女との距離を感じた。共感が薄いと言おうか、彼女の本を読んでいてもわくわくする感じがない。しかし、私は自分が感じた感覚を整理することができていなかった。

私が香山に共感できないのは、彼女があまりにもクリアカットに物事を説明しようとするからかもしれない。彼女は対象から完全に身を引き、純粋な分析者の立場でものを語っているように感じる。それに対して私の認識では、私と相手はいつ入れ替わってもおかしくない。私が「妄想を持っている」と評価している相手から見れば、私の方が妄想を持っているのだと評価される可能性がある。彼女にとって彼女の分析結果は「彼女の意見」ではなく「彼女が見つけた事実」なのだと思う。したがって、その分析結果は科学論文の「結果」のように、発見者から独立した存在である。だから彼女はまるで他人事のように分析結果を語ることができる。これは彼女の精神科医としての態度がさせることなのだろう。私にとって、私の分析結果は「私の見方」なのであり、私から独立して存在することはできない。

精神科医といっても彼女のような医師ばかりではない。患者と一緒に悩もうという医師もいる。私も患者と一緒に悩む医師でありたい。