雑誌「日経ヘルスケア」に「厚労官僚の独白」という匿名のリレーコラムがある。何回かこのコラムを取り上げ、批判したことがあるが、今回は少しかわいそうにもなった。2014年9月号の題名は『誰も分かってくれなくても…』である。

要は、政治家に振り回されつつ黒子に徹し、薄給と過酷な労働環境に耐えながら頑張っているという話だ。自己弁護とも泣き言とも居直りともとれるが、官僚の薄給と労働環境の悪さは良く知っているので、いささかの同情心が湧かないでもない。しかし、衣の下から鎧が見えるというか、強烈な自負心も持っていることもアピールしている。
読者の方々の中に、ナマの厚労官僚に接したことがある方はどのくらいおられるだろうか。筆者の経験では、ごく普通に話をしただけで、「官僚が国の将来のことをそんなに考えているとは想像しなかった」「現場を全く知らない人々だと思ったが、そうではなかった」などと言われることが多く、しばしば閉口させられる。

コラムでは、読売新聞8月14日版「論点」欄に、日本医療政策機構事務局長の小野崎耕平が『厚労省相次ぐミス 業務量に人員見合わず』として寄稿した文を紹介する形で、現状の問題点を指摘している。
ポイントは二つ。一つ目は過剰な業務量。同氏は、日本の国家公務員が世界的にも極めて少ないことを前置きした上で、厚労省の職員1人当たり法案数が政府全体の1.4倍となっていることを例示し、少子高齢化で膨れ上がった厚労省の業務過多を指摘する。実際、深刻なうつ病になる同僚は数知れない。

二つ目は政治家との関係。同氏は、政治家が官僚を「家庭教師」代わりに頻繁に事務所に呼び付け、官僚たちの時間と労力を奪っていると喝破する。確かに、管理職クラスの官僚の場合、閑散期を除き、5~6割方の時間を永田町へのレクチャーや根回しに費やしているというのが肌感覚だ。

私は厚労官僚に知り合いがいないので、現場の雰囲気まではわからないが、彼らの薄給と多忙については知っている。彼らを支えるものが、責任感とプライドだけであることも理解している。しかし、厳しいことを言えば、だからといって彼らの仕事の質が担保されるわけではない。

彼らが本音を言えば、かならずたたかれる。それは、国民的合意が形成されていないからで、さまざまな対立した意見が社会の中に雑居しているからである。たたかれたくなければ、合意形成を急ぐしかない。昨日のブログに、私は「バッシングを恐れず、手の内をはっきりと明かすことを望んでいる」と書いたが、たたかれることを覚悟で向かわなければ、きちんとした議論はできない。

コラムの最後の方では、現実の厚労行政が生々しく語られている。
また、政治家も玉石混交だが、ややもすると、“スジの良くない”地元支援者を議員会館に招き、そこに呼び付けた担当部署の幹部に要望を飲むように圧力をかけるという手法、つまり「口利きビジネス」 を行う光景も一般的だ。そこでは、官僚は、四苦八苦しながら、スジを語り、理解を得ようとする。こうしたことで労力が奪われ、政策が歪むのは懸塊(ざんき)に堪えない。

何かあれば“お上”のせいにし、困ったら駆け込んでくる地域の有力者たち。一方で、官僚側もそうした“猛者”をうまく執りなしてオチを付ける。営々と続いてきたそんな構造はそろそろ見直したいものだ。

やはりまだこんなことをやっていたのだ。見直したいと本気で思うのなら、すぐにでも見直してほしい。見直せるのは厚労官僚しかいない。国会議員は当てにできないのだから(国会議員を選んでいるのは私たちなのだから、その責任はもちろん私たちにもあるのだが)。