もう一回だけ、デイビッド・エイガス、クリスティン・ロバーグ『ジエンド・オブ・イルネス―病気にならない生き方』(日経BP社)を題材として書きたい。最初に取り上げたときは、本の内容に至らずに終わった。今回も引用はしない。
エイガスは、運動が「唯一、科学的に証明された若返りの薬(265ページ)」であると言う。彼は、自分の運動量を測定し、電話会議などで何時間もじっとしていることが多いとわかり、すぐにワイアレス電話のヘッドセットを購入し、電話がかかってきたときに話しながら歩き回れるようにしたのだという。「1日の歩数35%も増やすことができた!(284ページ)」と喜んでいる。いかにもアメリカ人という感じで面白い。エイガスに好感が持てるのは、非常に控えめで、自分が実践していることを書いていることだ。科学を信じ、医学を信じている。そのうえで、現代の医療者や患者が陥りやすい罠を指摘し、それを避ける手だてを示そうとする。決して脅かしたり、強要したりしない。
エイガスは断定的なことをあまり言わない。逆に、今の医学でわかっていないことがいかに多いかを強調する。良いことの陰にはかならず悪いことが隠れていることを、常に意識している。その態度は非常に好感が持てる。物事を簡単に断定するような人間の言葉は信用できないというのが、私が今まで経験で学んだことだ。この言葉自体が、「信用できない」と断定せず、あくまでも自分のこととして断定を避けているのは、読んだ人に中立的に受け止めてもらい、できれば賛成してほしいからだ。
繰り返しになるが、本書は、有益な情報と示唆に富む洞察に満ちた、良い本だった。ただ、ひとつ思うのは、米国人らしい実利主義が全面に出ており、そこに限界を感じたということだ。本書には体に良いことと悪いことが書いてある。体への良し悪しと、人生(ライフ)への良し悪しが、エイガスの中では一致しているように思える。しかし私は、体に悪いことが人生に悪いとは言えないと思っている。これは、単に「タバコを我慢する方がストレスだ」「体を壊すほど酒を飲まないとわからない世界がある」と言ったこじつけや観念論の話ではない。医学的、科学的な話だ。
良いことの陰に悪いことが隠れているように、悪いことの陰にも良いことが潜んでいる。以前このブログで走ることが体に悪いとする説を紹介した。走ることは生理的でない(自然にはやらない)ことなので、不自然であり、体に悪いとする説だ。しかし、石器時代の人間を考えれば、ときには獲物を追って走らなければ食べる物がないこともあっただろう。大型の動物に追われて逃げることもあったかもしれない。また、寝不足は良くない。しかし、石器時代には、交代で夜間の見張りや火の番をしなければならなかったかもしれないし、赤ん坊がいれば母親が寝不足になるのはいつの時代でも同じだろう。ヒトはそのような「体に悪い」ことを時としてしなければならないことを前提に進化してきたのではないか。
人は規則的な呼吸をするが、規則的な呼吸だけでは肺の働きが悪くなるため、ときどき深呼吸をしなければならない。規則的な呼吸を「生理的」と考えていると、深呼吸は不要な不自然なものと判断されるかもしれないが、実は必要なものなのだ。自然は規則的ではなく、不規則な乱れに満ちている。人間の体はそのような「乱れ」を前提にして進化したのではないかと思う。走ること、夜更かしすることは、生活における深呼吸のようなものではないのだろうか。
エイガスは、人体をシステムとして考えるべきだという。私は、生まれてから死ぬまでの人体を、経過する時間も含めてひとつのもの(システム)として見たい。人を5年間追跡して得られた研究結果は、5年間の効果しか説明することができない。また、死亡率を指標として得られた研究結果からQOL(人生の質)の変化を知ることはできない。じっとしていることが体に悪く、命を縮めるとしても、読書に費やす時間を削ることはできない。
自分がしてきたことを評価する場合に人生においての意味を問うのと同様、さまざまな生活パターンやそれからの逸脱が人に及ぼす影響も、人生という時間の中で評価しなければならない。失敗にも意味があるのと同様、嫌なこと、辛いことにも良い面と悪い面があるのだ。
エイガスは、運動が「唯一、科学的に証明された若返りの薬(265ページ)」であると言う。彼は、自分の運動量を測定し、電話会議などで何時間もじっとしていることが多いとわかり、すぐにワイアレス電話のヘッドセットを購入し、電話がかかってきたときに話しながら歩き回れるようにしたのだという。「1日の歩数35%も増やすことができた!(284ページ)」と喜んでいる。いかにもアメリカ人という感じで面白い。エイガスに好感が持てるのは、非常に控えめで、自分が実践していることを書いていることだ。科学を信じ、医学を信じている。そのうえで、現代の医療者や患者が陥りやすい罠を指摘し、それを避ける手だてを示そうとする。決して脅かしたり、強要したりしない。
エイガスは断定的なことをあまり言わない。逆に、今の医学でわかっていないことがいかに多いかを強調する。良いことの陰にはかならず悪いことが隠れていることを、常に意識している。その態度は非常に好感が持てる。物事を簡単に断定するような人間の言葉は信用できないというのが、私が今まで経験で学んだことだ。この言葉自体が、「信用できない」と断定せず、あくまでも自分のこととして断定を避けているのは、読んだ人に中立的に受け止めてもらい、できれば賛成してほしいからだ。
繰り返しになるが、本書は、有益な情報と示唆に富む洞察に満ちた、良い本だった。ただ、ひとつ思うのは、米国人らしい実利主義が全面に出ており、そこに限界を感じたということだ。本書には体に良いことと悪いことが書いてある。体への良し悪しと、人生(ライフ)への良し悪しが、エイガスの中では一致しているように思える。しかし私は、体に悪いことが人生に悪いとは言えないと思っている。これは、単に「タバコを我慢する方がストレスだ」「体を壊すほど酒を飲まないとわからない世界がある」と言ったこじつけや観念論の話ではない。医学的、科学的な話だ。
良いことの陰に悪いことが隠れているように、悪いことの陰にも良いことが潜んでいる。以前このブログで走ることが体に悪いとする説を紹介した。走ることは生理的でない(自然にはやらない)ことなので、不自然であり、体に悪いとする説だ。しかし、石器時代の人間を考えれば、ときには獲物を追って走らなければ食べる物がないこともあっただろう。大型の動物に追われて逃げることもあったかもしれない。また、寝不足は良くない。しかし、石器時代には、交代で夜間の見張りや火の番をしなければならなかったかもしれないし、赤ん坊がいれば母親が寝不足になるのはいつの時代でも同じだろう。ヒトはそのような「体に悪い」ことを時としてしなければならないことを前提に進化してきたのではないか。
人は規則的な呼吸をするが、規則的な呼吸だけでは肺の働きが悪くなるため、ときどき深呼吸をしなければならない。規則的な呼吸を「生理的」と考えていると、深呼吸は不要な不自然なものと判断されるかもしれないが、実は必要なものなのだ。自然は規則的ではなく、不規則な乱れに満ちている。人間の体はそのような「乱れ」を前提にして進化したのではないかと思う。走ること、夜更かしすることは、生活における深呼吸のようなものではないのだろうか。
エイガスは、人体をシステムとして考えるべきだという。私は、生まれてから死ぬまでの人体を、経過する時間も含めてひとつのもの(システム)として見たい。人を5年間追跡して得られた研究結果は、5年間の効果しか説明することができない。また、死亡率を指標として得られた研究結果からQOL(人生の質)の変化を知ることはできない。じっとしていることが体に悪く、命を縮めるとしても、読書に費やす時間を削ることはできない。
自分がしてきたことを評価する場合に人生においての意味を問うのと同様、さまざまな生活パターンやそれからの逸脱が人に及ぼす影響も、人生という時間の中で評価しなければならない。失敗にも意味があるのと同様、嫌なこと、辛いことにも良い面と悪い面があるのだ。