浅見昇吾:編『死ぬ意味と生きる意味―難病の現場から見る終末医療と命のあり方』(上智大学出版)を読了した。本書は上智大学で行われた輪講形式の社会人講座「死ぬ意味と生きる意味 ~難病の現場から見る終末医療と命のあり方~」の記録である。奥付によれば、編者の浅見は上智大学のドイツ語学科教授で、上智大学生命倫理研究所所員、上智大学グリーフケア研究所所員となっている。ドイツ文学ではなく、ドイツ哲学を専門にしているように思える。

本書は講座の「記録」であり、講師が提出した原稿をそのまま(必要最小限度の編集で)掲載しているのだろう。そのため、各章の差が大きく、非常に癖が強く読みにくい章がある。「記録」としての書籍の出版にも重要性を認めるが、講座の成果物として、講座で積み上げられた知識を社会に還元するために出版するのであれば、しっかりした編集をおこない、読みやすく理解しやすい本に仕上げるべきではないかと思う。

文章を書くのは難しいと思う。とくに相手に飽きずに読んでもらえる文章を書くのは難しい。無意識のうちに一般的でない語を使ってしまったり、思い込みで必要な説明を省いてしまったりする。また、文の調子が書いているうちに変わっていってしまうこともある。書きながら、あるいは書いた後で、客観的な目で批判的に読み直すと、驚くほど多くの訂正箇所を見つけることがある。「客観的な目で批判的に」というのは、言うのは簡単だが、実際にはそんなに簡単にできるものではない。もともとそのような才能を持っている人もいるだろうが、たいていの人は訓練を必要とする。

本書に寄稿した講師たちには文筆家もいれば、そうでない人もいる。文章を書く訓練を受けていない人に高い水準を要求するのは酷だろう。私は、プロの編集者を入れるべきだったと考える。

本書の第7章は入江杏『病と障害の母を看取って―曖昧な喪失と公認されない喪失』であった。入江の肩書きは「文筆家」である。どこかで見たことがある名前だと思いながら本文を読んで「あっ」と思った。世田谷で2000年12月30日に起きた一家殺人事件被害者の親族だった。

この事件については、齊藤寅『世田谷一家殺人事件―侵入者たちの告白』(草想社)という本を読んだことがある。さまざまな凶悪事件の報道に接すると、なぜ私と同じ人間である犯人が、そこまでな凶悪なことをできるのかを知りたくなる。これは好奇心というより、自分の心の中にも同じような闇が潜んでいるのではないかという恐れであり、その闇について少しでも予備知識を得ておきたいという必死の気持ちでもある。『世田谷一家殺人事件』を書店で見かけたとき、そのような気持ちで購入した。齊藤によれば、これは外国人の犯罪者グループが力の誇示のために起こした事件である。彼は複数の犯罪者グループが成果を競いあっている状況を突き止め、犯行メンバーに接近した。そして犯行の詳細を知ることができた。

本では犯行の様子が、犯人の視点から詳しく記述されている。2006年に刊行された本なので、読んだのは7年ほど前のことになるが、今でも内容をよく覚えている。犯行を追体験したような気がする。入江の文で「世田谷」の語を見たとたんに、犯行の情景がよみがえってきた。私にとってこの事件は、ある意味で「経験した」事件なのだ。

入江の文を読み進むうちに、心がざわめき、ときどき本から顔を上げて休まなければならなかった。2000年の事件で妹一家を惨殺された入江は、2010年に当時60歳だった夫を大動脈解離で失い、2011年には母を失っている。彼女の苦しみを私が理解することはないだろうが、私も私なりの苦しみを感じた。