今日は在宅訪問診療を行っている施設にお願いして、訪問診療を見学させていただいた。午後1時から4時頃までで4軒のお宅を訪問した。内訳は、癌の患者さんが2名、認知症と老衰それぞれ1名ずつである。

(以下概要を紹介するが、個人を特定できないようにするため、事実を大幅に省略し、一部を少し変えてある。)

認知症の方は随分高齢で、介護は配偶者が行っていたが、いわゆる「老老介護」であり、介護者にも難聴、物忘れ、歩行障害などの症状が出始めている。このまま行けば、いずれ立ち行かなくなることは明白だ。独居の老人の場合、生活を成り立たせるためのマンパワーをどのようにして集めるかが問題だ、と医師は話していた。

老衰の方は、もうすぐ100歳を迎えるが、難聴があり、脳梗塞と心筋梗塞の後遺症で、寝たきりである。しかし、意識は清明で、穏やかな表情で上品に話される。「食欲があって困る」との事であった。なぜ困るかと言えば、それだけお迎えが遠のくからとの事である。にこやかに「困りました」と訴え、医師のほうもにこやかに「成り行きに任せましょう」と応じていた。介護付きのアパートに独居であるが、本日は娘さんが訪れていた。

癌患者の1名は子宮癌の再発である。一番の問題は「私はもう長くない。1年半か2年しか生きられないから」と家族に言っていることである。実は医師の方は余命を1、2ヶ月と見ている。「死を覚悟している」と言っても、このようなギャップはしばしばある。このギャップをどのようにして穏やかに埋めて行くか、医師のコミュニケーション能力が問われるところだ。

もう1名の癌患者は上咽頭癌の再発である。まだ症状はあまりなく、元気に過ごしている。川柳を作られる方で「ガンだとさ。これでボケずに死ねそうだ」という作品を教えていただいた。「老人は 早く死ぬのが 国のため」という川柳が頭から離れないとも笑っておられた。

病院勤務で、いわゆる3分診療に慣れている身からすると、半日で4名と言う今日の診療は別世界であった。失礼とは思ったが、施設に帰ってから採算について伺ったところ、看護師を同道しないので、医師には勤務医程度の報酬が払えるとのことだった(夜中に急変で呼び出されることが月に何回かあり、それを含めている)。勤務医の報酬は開業医の6分の1との統計も耳にしたことがある。開業しても、在宅訪問診療に特化して事業を行うのなら、それこそ使命感と覚悟が必要だろう。

こう書くと「それでも高給取りだろう」という声が聞こえてくるような気がする。もう10年程前になるが、医療関係のポータルサイトで、医師の給料に関する議論に参加したことがある。その際、医師よりもっとハードな職業で、医師よりずっと給料が低い職業があると言って「医師は自分の給料に文句を言うべきではない」と強硬に主張するメンバーが実際にいた。ここで私の考えを述べておきたい。

まず、業務としてどのような医療を行うかは医師の裁量の範囲である。その際に、収入が少ない方の事業形態であっても、自分がやらねばならないと思う事業を選択する態度を、私は品位の高い態度と評価し、私もそれに倣いたいと思う。また、不利なことを自分から行う(労働基準法に照らせば明らかに違法な勤務に従事する、報酬無しで働くなど)ことが勤務医の実態では多いのだが、自分から行う場合は納得しているものの、他人から「給料が良いのだから(医師だから)それぐらい当然」と言われると、非常に不愉快である。

医師は昔は特権階級であったが、現在は一般労働者にかなり近くなっている。患者とは対等と考えることが、現在では当然だ。特権階級には特別な責務があるが、一般労働者には通常の責務しかない。ところが医療制度は医師が特権階級であった頃の旧弊を引きずっており、医師に特別な責務を課している。このところを直して行かないと、医療制度はうまく回らない。