これも以前に読んだ本であるが、遠藤秀紀『人体 失敗の進化史』(光文社新書)について触れておきたい。著者は東京大学総合研究博物館教授で獣医師でもある。奥付によれば「動物の遺体に隠された進化の謎を追い、遺体を文化の礎として保存するべく「遺体科学」を提唱、パンダの掌やイルカの呼吸器などで発見を重ねている」そうだ。また、「あとがき」によれば、著者はいわゆる学校推薦図書のようなものは嫌いだと言う。
闘う学者の姿。私はそれを多くの人に見てもらいたいと念じて、筆を執った。「遺体科学」のように地味な学問が、のたうち回り、呻吟する様を、そのまま凝視してほしいのだ。そこには、生の苦しみを克服しながら、ヒトや動物の身体の謎を解き明かしていく、学者たちの飽くなき熱狂が、必ずや燃え上がっている。人間社会が日々当然のように享受している身体についての知は、けっしてスマートとはいえない遺体と学者たちの混沌が築いてきたものだ。読み手は中学生でも、サラリーマンでも、専業主婦でも、悠々自適のご老人でも構わない。サイエンスとは、つねに現実と闘って勝ち取らなければならないものだという事実を、普通の人々に普通に知ってもらいたいのだ。(246ページ)

著者の主張の中心は「生物が進化する際、変化に適応するために新しく器官が作成される場合は、既存の器官を可能な限り流用する」という原則である。これを著者は元々の設計に対する「設計変更」と呼んでいる。既存の器官を、場合によってはかなり無理をして流用するために、非効率的な点があったり、後々になって不都合が起こったりする。

本書はタヌキの遺体解剖から始まる。「遺体科学」を提唱しているくらいだから、遺体の解剖の話が出てくるが、ペンギンの解剖の話は興味を引いた。ペンギンは自分の体長ほどの魚を丸呑みにするために、骨盤にまで届く真っ直ぐで長い胃を発達させているのだそうだ。著者は最初の解剖の際、それを知らず(もっともペンギンの消化管の構造を熟知している人がどれほどいるかは疑問だが)直腸を切断するつもりで胃の尾側端を切断した。

「解剖」の題材としてはフライドチキンやサンマの塩焼きも対象となる。身近なものの解剖を通して、自然界にある様々な「設計」と、進化が行って来た様々な「設計変更」を教えてくれる。

一番の設計変更は二足歩行によるものだろう。著者はサバンナ説を採用しているが、疑念が払拭できないようだ。
もちろん、ある程度進歩した類人猿が棲んでいた地域が乾燥し、森が枯れ果てることなど、ただの偶然の出来事である。古生態学にも自然地理学にも疎い私には、そこまで運任せの出来事でヒト科が繁栄を始めるのかどうか、いまひとつ納得してはいない。正確にいえば、納得したくないという思いが、心のどこかに残っている。(136ページ)

二足歩行に関する設計変更には、足底部のアーチ形成、アキレス腱の強化など様々あるが、特に印象に残ったのが脚の付け根の設計変更である。著者は「実をいえば、私のような形を扱う学者が遺体や標本で最初に目をつけるのは、形がもっている大きさなのだ。サイズが大きいことは、形に無視できない機能が備わっていることの一つのヒントでもある」(143ページ)と述べているが、ヒトの足底、アキレス腱、臀部は、他の動物に比べて非常に大きい(ついでに述べればヒトの女性の乳房も類人猿に比較してとても大きいが、この意味については別の本に理由が述べられていたので、別の機会に譲る)。
ヒト科と、もともと四本足で歩いていた時代のサルとは、骨盤から見て、腿の骨(大腿骨)の伸びる方向が90度変わってしまっている。サルや普通の獣の場合、水平に置かれた骨盤から、90度折れ曲がって地面に向かう大腿骨を動かすことで、歩くことが可能だ。だが、ヒト科では、大腿骨は地面に垂直に立ったままだが、事もあろうに、サルで背骨に並行に伸びていた骨盤までもが、背骨といっしょに垂直に立ってしまったのだ。(156ページ)

つまり、普通の四足獣の後足は、ちょうど我々が(少し腰を丸めて)椅子に座っているような形で出ている。ヒトは立ち上がった場合に、その脚が90度後ろに向くわけで、歩行中には更にその脚が後ろに行く。
となると、私たちが歩くには、大変なトラブルが生じる。思いっきり後ろに投げ出してしまった大腿骨を、さらに後ろに蹴らなければ、ヒトは歩くことができないではないか。左様、四本足の動物でいえば、後ろ足を大空へ向けて投げ出すほどの、とんでもない運動を、歩くたびに起こさなければならないことになる。(157ページ)

そのため大腿骨の関節の窪みが深くなって、確実に大腿骨頭を捉えるようになり、さらに臀部の筋肉が発達して、脚を後ろに蹴り出せるようになったのだ。

二足歩行がいかに画期的なことかが良く分かった。