岩田誠・河村満:編『ノンバーバルコミュニケーションと脳―自己と他者をつなぐもの』(医学書院)を読了した。第4部は「脳科学の社会的意義」で、表題にした佐倉論文の章のみとなっている。このようなモノグラフで、扱っている学問領域と社会との関係を正面から取りあげた論文を掲載しているものは少ないのではないか。編者の慧眼に敬服する。

佐倉統は、紹介によれば東京大学大学院情報学環の教授である。彼はまず専門家と社会との歴史を振り返る。最も古くから存在した専門職である医師、法律家、宗教家では専門家集団としての倫理規範が確立し、自律的な集団運営がされていた。科学者が専門家集団として認知されたのは19世紀ごろだそうだ。
英語圏で“scientist”という用語を最初に使ったのは哲学者のWilliam Whewellで、1833年のことである。これは、それまでいわば趣味の領域であった自然科学が、職業として確立してきたことを示している。(191ページ)

しかし、科学者は医師・法律家・宗教家と異なり、直接社会に関与する訳ではないので、社会との関係の成熟が進まなかった。しかし彼は、今日では、「基礎研究者といえどもその社会的な役割を科学者以外にもわかるように簡潔明瞭に説明することが要求されている」とする。これは、社会の平均的知識量が増大し、科学から社会への一方的な知識の贈与という形態が成り立たなくなったからだとしている。彼は科学者と社会との関係の未成熟を示すものとして、以下のエピソードを挙げている。
2004年、日本のすべての国立大学が法人化されたが、その際に衝撃を受けたのは、社会全般におけるこの問題への無関心である。賛成にせよ反対にせよ、関連する意見はほとんどすべてが大学関係者からしか発せられなかった。国立大学の設置形態が変わるというのは1872年(明治5年)の学制発布以来という大変革にもかかわらず、世の関心は低かった。(192ページ)

彼は脳神経科学と社会の関係を専門的に研究し、扱う人材が必要であるとしている。科学と社会のコミュニケーションに関しては学術専門誌も複数あり、複数の国際学会が活発に活動していると言う。米英には大学院に専攻プログラムを設置している大学もあるそうだ。そのような専門家の育成を脳科学領域でも行うべきだということだ。しかし、日本では社会と科学のコミュニケーションを扱う専門家すら育てるプログラムがない。まずそこから始めるべきだろう。このことは医学と社会のコミュニケーションについても言える。たとえば医療メディエータも両者のコミュニケーションを支える人材と言えるだろう。そのような人材を専門的に育成する必要があると思う。

また、彼は、脳神経外科の裾野が広がることにより、科学的に不明確な結果であっても、しばしば社会に流布してしまうことを問題として取りあげている。
テレビゲームをやりすぎると脳に悪影響があるという言説が一世を風靡したことがある。出典は2002年に出版された、森昭雄の『ゲーム脳の恐怖』で、著者が「脳科学者」であったために、「科学的根拠」をもった成果として注目された。しかし、脳波の測定の仕方や解釈に大きな誤りがあることがその後指摘され、現在では科学的根拠はほとんどないとされている。(200ページ)

彼はDSの「脳トレ」も取りあげているが、「正統科学」対「疑似科学」という二項対立図式では問題が解決しないとして、「ネタ科学」という概念の導入を提案している。科学を単に世間話レベルでの「ネタ」として使っている場合は問題にすべきでなく、それが真実と受け取られないように注意することが科学者の責務だとしている。

正しい意見だと思うが、問題は誰がいつどのように正しい情報を発信して行くのか、その仕組みを作ることだろう。