岩田誠・河村満:編『神経文字学―読み書きの神経科学』(医学書院)を読み進める過程で気付いたことを書きたい。

本書は日本語の、主に読み書きについて取り扱った本だ。だから、アルファベット圏での文字認識についての記載はなく、日本語との比較もない。しかし、読み進めるに従って、アルファベット圏ではどうなのだろうと言う疑問が非常に大きくなってきた。

脳梗塞や脳出血などの脳の病気の後に言葉が話せなくなったり、分からなくなったりする症状が出ることがある。失語症と呼ばれる状態である。日本人の失語症では、仮名と漢字で症状の出方が異なる症例がある。特に、仮名の読み取りが障害されるのに、漢字の読み取りは障害が軽い症例があり、音を処理する部分が障害されたために、音と密接に結びついた仮名の読み書きが障害され、意味が分かれば良い漢字の読み書きの障害が少ないのだろうと推測されている。では、アルファベットではどうなのだろう。日本人が英語を読む場合、「eye」という綴り全体を見て「目」と認識している可能性がある。大昔になるが、学生の頃、綴りを一字一字覚えるのではなく「目と鼻のある形」として「eye」を覚えろと書いてあった雑誌記事を見たことがある。

英語のマンガは、セリフが手書きで、しかも全部大文字で書いてあるのが普通だ。最初全て大文字の文章を読まされると、私もそうだったのだが、慣れるまでうまく読めない。それこそ「EYE」と書いてあっても「目」だと思いつかない。「NIGHT」と書いてあるのを見て、意味が分からず、1文字ずつ追って「あ、nightだ」と気づいたことを覚えている。これは、単語をアルファベットの連なりとして認識しているからではなく、「字面」として認識しているからではないか。また、外国人の場合でも、綴りの途中の文字の順序がめちゃくちゃでも(場合によってはそれと気付かずに)読める(4月2日のブログで取りあげたワインチェンク『インタフェースデザインの心理学』を参照)。また、アルファベットを使う言語では、語と語の間を切り離して、語としてのまとまりを際立たせようとする。短い単語は、漢字と同様に一塊として認識されているのだろうか。それとも、大文字でも小文字でも同じとして認識されるのであれば、やはりアルファベットの連なりとして認識されているのだろうか。今後、英語などの失読症に関する文献を読んでみなければならないだろう。

本書を読んでいて、読むことと聞くことの差異があまりはっきりと論じられていないことに不満を感じた。話すことと書くことの差異は小さいのではないかと思う。頭の中に音ができて、そこに正書法の規則(格助詞の「を」や「は」の使用法など)が適用されて文字になる。頭の中にできた音が発音器官を制御する方に送られれば声になるのだろう。

それに対して、読むことと聞くことは全く別物だ。読む場合は印刷された(あるいは、書かれた、表示された)文字列を読むので、先読みや読み返しが可能である。また、ある程度時間をかけて読み取ることができる。しかし、聞く場合はそうは行かない。音はどんどん消滅して行くので、聞いた音を一時記憶に蓄積しながら、適当な長さになったら意味を切り出すと言う処理を、逐次的に行わねばならない。従って、失読症と聴覚失認では、病態が全く異なると予想される。その点についても、今後文献を調べてみなければならないだろう。

この本を読んで、分かったことより分からないことに気付いたことの方が多い。それは結局、私には大きく役に立ったと言うべきことなのだろう。