親しい人を亡くしたり、自分に大きな障害が起きるなど、大きな喪失体験があった場合、人はその悲しみのエネルギーにより、何かの作業に打ち込むことがある。よくグリーフワーク(grief work、喪の作業、悲哀の作業などと訳される)と呼ばれる。

先日、「いびらのすむ家」という絵本の存在を知り、取り寄せて読んだ。「いびら」とは、家に住む、人には見えない、家の守り神だそうだ。この絵本は、作者である吉田利康が、白血病の妻を家で看取る話を綴ったものだ。子供向けの絵本になっているので、重い主題にもかかわらず、温かで優しい本だ。物語には色々註が付いるので、在宅看取に関連した事項が学べるようになっている。巻末には「この絵本を手にしたあなたへ」というページがあり、在宅ホスピスについてのメッセージが掲載されている。全体を通しての印象は、絵本というより「副読本」だ。

吉田の妻は看護師だった。急性骨髄性白血病を発症し、化学療法などを行ったが緩解に達することができず、1999年に亡くなった。亡くなる前、自宅での生活を希望して退院したが、当時は在宅での看取りに付いてあまり情報がなかったため、吉田は随分奔走し、苦労したらしい。現在、吉田は在宅ホスピスを支援するNPO法人「アットホームホスピス」(http://athomehospice.net/index.htm)を運営している。

注文した本とともに、NPO法人の機関誌、吉田の対談が掲載された雑誌のコピー、新聞記事のコピーなどが送られてきた。それらに目を通していると、非常にしっかりとした活動を継続していることが分かり、感心した。活動に興味を持ち、訪問してみたい気持ちになったが、所在地が兵庫県西宮市のなで、学会のついででもなければ気安く訪れることはできない。このような活動をしている人は他にもいるのだろうが、情報の収集はなかなか難しい。今後も地道に調べて行くしか無いだろう。

アットホームホスピスのホームページには、活動のきっかけがこう述べられている。
1999年、急性骨髄性白血病で亡くなった妻の「もしもこの病気がよくなるのなら、同じ病気の人の話し相手になりたい」という遺志を受け継ぎ、2002年から市民活動を始めたところに出発点があります。(http://athomehospice.net/athome_003.htm)

吉田の一連な活動は、妻を亡くしたことに対するグリーフワークなのだろう。このように多くの人の役に立つ活動をグリーフワークにすることができたのは、吉田の性格によるのだろう。

グリーフワークと言うと、マイケル・ローゼン作、クェンティン・ブレイク絵、 谷川俊太郎訳の 『悲しい本』(あかね書房)を思い出す。
作者のマイケル・ローゼンは最愛の息子を失ったひとりの男(ローゼン自身かもしれない)の、どうにもならない悲しみを、悲しみの溺れない詩人の目でみつめる。そしてそういうひとりの男の姿を、クェンティン・ブレイクは共感とともにユーモラスに描きだす。(カバーに印刷された谷川俊太郎のことば)

2004年12月に出版され、テレビなどで随分話題になったようだ。私はこの本を偶然見つけ、ストレートな題名に惹かれて手に取った。そして読み始め、泣き出しそうになり、慌てて本を閉じ、レジに進んだ。この本はローゼンのグリーフワークではないか、と私は思っている。絵を担当したブレイクは、映画「チャーリーとチョコレート工場」の原作者として有名なロアルド・ダールの本の挿絵を描いている画家だ。彼の絵も良い。何とも言えず良い。寂しさ、悲しみが、まるで固体であるかように体に当たってくる。

先日、病院で亡くなった患者の家族から大部の手紙が送られてきた。手紙と言うより「手記」と言った方が良いかも知れない。病気の経過を、他院での経過も含めて、詳細に記述してあり、筆者の感想が加えられている。あちこちに病院への質問とも苦情ともとれる(あるいは著者の自問ともとれる)文が差し挟まれている。事務方から対応について相談を受けたのだが、これは残された家族のグリーフワークなのだろうと思った。

知人の弁護士に訊いたところ、1年に数件そのような文書が相談の対象として持ち込まれるとのことだ。そのような文書の筆者としては、親のアパートを相続した息子など、仕事らしい仕事を持たず、親の財産に経済的に依存した子供の場合が多いと言う。親との結びつきが強いだけに、死を迎えたときに気持ちが過去へ向かい、後悔や怨嗟にとらわれるのだろう。私が相談を受けた患者家族がどのような人かは知らないが、誤解を解き、前向きに考えられるように支援して行きたい。

様々なグリーフワークがあり、社会的活動に向けられることもあれば、勉強や仕事など個人的な作業に向けられることもあり、医療に対して非難という形で向けられることもある。実際、病院に来た研修医に医師を志した動機を訊くと、近親者の死や大病をきっかけとしたものが毎年いる。そのような生産的なグリーフワークは、本人の満足感も得られ、良い心理状態をもたらすだろうが、他責的行為をグリーフワークとして行うと、満足感が得られることはなく、苦しいばかりではないかと思う。ネガティブなグリーフワークからは早く抜け出すことが良いように思うが、どうするかは本人次第であり、「抜け出したくない」と思っている可能性すらあるのだ。