2月21日に引き続き、松沢哲郎『想像するちから―チンパンジーが教えてくれた人間の心』(岩波書店)について書きたい。

ヒトとチンパンジーの全ゲノムを比較した結果、約98.9%は同じだったという(12ページ)。チンパンジーとヒトが生物的に近いことに驚かされる(実はイネのゲノムと比較すると、ほぼ同じものが40%見つかっているとのことで、生命の連鎖を実感できる)。著者のチンパンジーに対する愛情は強く、この本ではチンパンジーを数えるのに一人二人と数え、性別も男性、女性と呼称し、人間と区別なく扱っている。
松沢の研究方法も、チンパンジーの「人権」を尊重した「参与研究」で行っている。20世紀前半に行われた研究では、チンパンジーの子供を人間が教育して、チンパンジーがどのような能力を身に付けるかを観察するのが一般的だった。このような研究は「フェアじゃない」(124ページ)と松沢は指摘する。
われわれが見ているのは、親から引き離されて、人間という別種の生き物の環境に放りこまれて、否応なく適応していく様なのだ。それは乱暴じゃないか。生きていくうえで必須な、ものすごく重要な環境を剥奪している。母親という環境を剥奪している。そういうなかで無理やり人間の世界に適応していく様を見ている。(125ページ)

「参与観察」とはチンパンジーの母親に育てられた子供の発達を観察する方法で、その背景には、研究者とチンパンジーが長い時間をかけて親密な関係を結んでいるということがある。これは日本独自の発想で、西欧の研究者はそのようなことをしないのだそうだ。
チンパンジーの子どもはお母さんに育てられる。お母さんと研究者は仲良しだ。長年培ってきたきずなを利用して、お母さんに「ちょっとお宅のお子さん、貸してください。検査させてください」と頼む。それが参与観察というやり方だ。(128ページ)

ここで思うのは、チンパンジーのような野生生物と犬や猫のような家畜との違いである。犬や猫は早期に親から離すことができる。人間の家族の一員として迎え入れ、きちんと慣らすことで、自然に人間のパートナーになる。犬や猫は人間の社会で人と共存して生きるように進化した。野生動物はそうではないのに、安直にチンパンジーが同じだと誤解してしまうのだろう。
また、自然の中のチンパンジーを、人間の姿をできるだけ隠すようにしつつ観察するということもしている。

チンパンジーの発達を見ていて松沢が分かったのは、子供には大人と同じことをしたいという強い動機があるということだ。親が殻から出した実を、子供は取っていくが、それでは満足せず、最終的には自分で殻を割ることを覚える。その際、親は教えない。チンパンジーの教育は「教えない教育、見習う学習」(140ページ)であると言う。それに対し、人間の教育は「教え、認める教育」であると言う。人間の子供には「認められたい」という強い欲求があり、教育においては「認める」という行為が重さを持つと指摘する。

このようにチンパンジーと深く関わる松沢は、テレビに赤ん坊のチンパンジーを登場させることを激しく非難する。少し長くなるが、引用する。
母親から引き離されたチンパンジーの子どもは、背中を丸めてうつろな目をしている。まるで鬱のようだ。ここに人間の飼育員が代理の母親として入る。どういうことが起こるかというと、子どもは飼育者にひっしとしがみつく。チンパンジーの子どもは、母親に強固な愛着を抱くという本性をもっている。だから人間を親代わりにして、しがみつく。[中略]
だからこそ、親代わりになった人間が「手を頭にもっていってごらん」と言えば、手で頭を叩く。「掃除機を使え」と言えば、掃除機を使うだろう。「イヌと散歩に行け」と言ったら、イヌと散歩にも行く。チンパンジーのもつ知性と、その愛着のありかたを知れば、なんの不思議もない。(125ページ)
一日の終わりに疲れてテレビをつけると、チンパンジーが面白おかしいことをしている。それを見て、人があっはっはと笑う。
それは人間としてよくない。[中略]
覚えておいてほしい。テレビに出てくるチンパンジーの顔は肌色だ。あれは子どもの特徴だ。[中略]本来は母親と一緒にいなければいけない年齢の子どもだ。そうしたチンパンジーを、いろいろな理由をつけて母親から引き離している。
ビジネスのために、無理やり子どもを母親から引き離す。あるいは獣医さんが「いやぁ、子育て放棄しちゃって」と勝手な判断をくだして引き離す。どんな理由があっても、たとえ死にいたったとしても、チンパンジーの子どもを母親や仲間から引き離してはいけない。彼らには親や仲間と過ごす権利がある。それを踏みにじってよいという権利は人間の側にない。(126ページ)

実は、私はH. A. レイの絵本『おさるのジョージ』を読んでいて以前から違和感があった。黄色い帽子のおじさんが、ジョージを捕まえて連れて帰るシーンがどうしても好きになれないのだ。1巻以外は単純に楽しむことができ、子供たちにもよく読んで聞かせた。しかし1巻の件のシーンだけが、読んでいて引っかかってしまうのだ。子供たちは「お話の世界のこと」と割り切っているようだ。私のこの「割り切れなさ」が、私の世渡りの下手さと密接に繋がっているのだろう。