週刊医学界新聞2013年2月4日号(http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/pdf/3013.pdf)の座談会『終末期の“物語り”を充実させる―「情報共有・合意モデル」に基づく意思決定とは』を読んで考えたことを書く。

この座談会では、患者・家族と医療者がお互いに情報交換し、終末について話し合うことの重要性が強調されていた。私もその重要性はよく認識している。家族、医療者が患者と終末観を共有することが、患者が良い終末期を過ごすために、そして残される者たちが充実したケアを行い、死後に良い思い出を得るためには重要なことだ。

その議論の中で非常に面白いと思ったのが、議論の最後に登場した「死に目」という考え方に関する指摘である。
私の子供に確認すると、霊柩車を見たときには親指を隠すものだと言う。理由を訊くと「親の死に目に会えないからだ」と言う。なぜ死に目に会いたいのかと、さらに訊ねると、「最後ぐらいは一緒にいたい」と言う。実際の医療の現場でも、座談会で指摘されていた通り、家族が来るまで心臓マッサージを続けるのはよくあることだ。『「死に目に会う」文化からの転換』という最後のセクションでの議論を要約すれば以下のようになるだろう。
家族や医療者が患者本人に寄り添って、死に至るプロセスを一緒にたどってくると、患者との関係が安定し、「死に目に会う」かどうかにあまりこだわらなくなるのではないか。死に向かうプロセスを「人生の最終章というプロセス」として重視し、「死に目」という言わば“点”で患者にかかわることから、「死にゆく過程」という“線”として、その時間にかかわっていくことで、日本の「看取り」の文化に転換がもたらされるのではないか。
人の死は決して「何時何分何秒」という一点ではなく、人と人との関係性の中で、時間をかけて織り込んでいくものだ。死に向かう過程へのかかわりを大切にする文化は、患者の死を受容する必要のある患者家族にとって意義あるものとなる。「息子が来るまで、母を延命してくれ」といった「死に目に会う」ことを優先し、そのために患者本人にとって無用な延命処置が行われ、苦しませてしまう結果になることがなくなるだろう。

考えてみれば、「死に目」とは、大家族制の一家で、移動距離もそんなに遠くなく、疾病構造は急性期疾患が中心という、戦前までの医療状況の中で、何百年もかかって培われた文化なのだろう。現在は、家族構成は核家族であり、お互いの居住地域も遠隔地のことがあり、仕事で出張していると言っても海外のことがある。もちろん家族の最後に立ち会いたいと思うのは当然だろうが、「死に目」に重きを置く考え方は現状に合いにくくなっているのが現実だろう。また、癌、認知症や慢性疾患の場合、死そのものが徐々に訪れることもある。死の定義そのものも、心臓死、脳死など複数あり、いつ死んだのか判然としない場合もある。それを考えても、死は「点」ではなく「プロセス」になっていると言えるだろう。

現代の社会は、人が「そう簡単には死ねなくなった」社会である。死のタイミング、死について考えるタイミング、死について伝えるタイミングを逸すると、取り返しのつかない状況が出来することがある。会田は
ただ「胃ろうを造設するか否か」といった局面になってからでは、その方にとっての最善を実現することが困難になる場合もあります。今後は、元気なときから自らの人生の最終章をどのように生きたいのかを考え、家族や医療者と話すことが普通に行われる社会を作っていく必要があるでしょう。

と述べるが、これは胃瘻についてだけの話ではなく、死や終末に関する全てのことについて言えることだと思う。
また、会田は「より長く生命を存続させることだけが必ずしも医療の目的ではない時代となった今、終末期において生命を大切にするとはどういうことを意味するのか。今後もこの問いについて、率直に議論していく必要性を再認識いたしました」と座談会を結んでいるが、まさにその話し合いを各家族が実践して行くときだろう。