自己決定権について、さらに考えた。

意識がある人の場合は、本人の意思が尊重されるのが原則である。この原則から外れるのは、鬱状態、妄想状態など、本人の意思決定能力に疑問があると判断されるときである。しかし、その意思決定能力の評価は客観的に妥当なものなのであろうか。旧ソ連で、社会主義体制に反対した人びとが、「理想的な体制であることが理解できないのは精神病だ」という理論で精神病院に収容されたのは、良く知られた話だ。評価は常に恣意的であり、客観的な評価というものはあり得ないとも言える。
本人の価値観と、社会の価値観が一致しない場合、社会の価値観の方が優越しているとすることはできない。基本的に社会は個人主義を基礎として運営されるべきだろうから、個人の価値観が重視されねばならない。しかし、個人の価値観に沿うために、社会資源を投入しなければならない場合や、個人の価値観が社会の倫理観に抵触する場合は、何らかの調整が必要となる。たとえば、脳挫傷で脳死が明らかな患者に人工呼吸機を付け、さらに気管切開を希望する場合、回復の希望の無い「延命処置」でさらに患者に侵襲を加えることに誰しも躊躇するだろう。また、癌の末期で経口摂取ができない患者が脱水を起こし、家族により病院に搬送された際、本人が点滴を拒否すれば、医療者は患者の説得に回るだろう。

これは、日本人の私が、日本人の読者を相手に話をしているので、すんなり受け入れてもらえるのではないか。状況設定を変えたらどうだろう。欧米では、高齢者が誤嚥性肺炎になっても点滴などせず、経口抗生物質を投与するのが普通である。経口剤が内服できなければ、肺炎の悪化により死亡する。日本のように点滴はしない。高齢者を入院させ点滴をすると、不隠(急激な環境変化があった場合などに一時的に混乱して異常な行動をすること)から点滴を抜去してしまうことがあり、それを防止するために抑制(手袋をして手の自由を奪ったり、布製の帯で腕を固定したりして、危険な行為をしないようにすること)を行い、肺炎が軽快しても寝たきりになったり、認知症が進行したりすることがよくある。それは高齢者に対して残酷だというのが欧米での一般的な認識である。
ここでちょっと考えてみたい。いささか設定に無理があるかもしれないが、日本人の高齢者が欧米を旅行中に誤嚥性肺炎になり、点滴をせずに経口剤を投与するのが良い治療だと「説得」されたらどうだろう。

このように社会の「常識」と個人の意思が対立することはしばしばある。宗教的な理由で輸血を拒否する人びとがいることは良く知られていることだろう。社会はその価値観をその人たちの価値観に優先させて良いのだろうか。2008年2月28日に宗教的輸血拒否に関する合同委員会が「宗教的輸血拒否に関するガイドライン」を報告した。合同委員会は、日本輸血・細胞治療学会、日本麻酔科学会、日本小児科学会、日本産科婦人科学会、日本外科学会の5学会と、法律関係、マスコミ関係の委員がメンバーとなっている。この提言では、当事者が18歳以上で医療に関する判断能力がある場合、医療側が無輸血治療が難しいと判断した場合は「当事者に早めに転院を勧告する」となっている。合同委員会の提言に合わせて、多くの病院では「輸血が必要と判断した場合は、輸血する。受け入れられない場合は転院を勧める」という方針を採用している。東京都も基準を同様に変更した。これは、このガイドラインが裁判例などを多く引用し、医療者に訴訟されることの恐怖を受け付けるような内容だったからだと推測する。
しかし、ガイドラインの「転院を勧告する」はあまりに無責任ではないか。ガイドラインは非常に権威のあるものと見なされており、すべての医療機関が従うべきものとされている。ガイドラインが公表された後で、そのガイドラインに従わない医療を実施して訴訟になった場合、必ず敗訴すると言われている。それならば、全病院がこのガイドラインに準拠したときには、宗教的信念により輸血拒否をする患者は、どこへ行けば良いのか。まさか転院を勧告された病院で医療を継続するわけにはいかないだろう。勧告された時点で信頼関係は途絶すると考えられる。結局、患者たちは「医療難民」になるしかない。

私には自分の命より大切なものがある。だから、宗教的信念で輸血を拒否する人びとの気持ちがわかる気がする。日本で生きて行くためには、彼らは部分的には医療の恩恵を受けることを諦めなければならないのが現実になろうとしている。

しかし、子供の場合は別だ。この点は非常に悩ましい。親が宗教的信念から輸血を拒否していても、子供には強制的に輸血でも良いだろう。輸血された子供は、(親から見て)被害者であり、禁を冒した罪人ではない。親は輸血されたその子を哀れみを持って慈しむべきではないのか(禁を破らされたことで、天国に行けない体になってしまったのだろうか。それなら、一度でも輸血歴のある人は入信できないことになる)。今度訊いてみよう。ただ、このように親の考えを無視して社会が子供を一方的に「治療」(親からすれば「虐待」か?)するということが許されるのかどうかは、また別の問題だが。