会田薫子は東京大学大学院人文社会系研究科上廣死生学・応用倫理講座の特任准教授であり、専門領域は、医療倫理学、死生学、医療社会学で、終末期医療、延命医療、高齢者医療、脳死、臓器移植といったテーマに取り組んでいる。先日「延命医療と臨床現場―意思決定をどう支えるか」という講演を聞く機会があった。
会田は「延命措置」という言葉を使わない。「措置」とは、行われる医療行為が治療ではないという医学的判断に基づいて選択される語であるとし、会田は、その医療行為が患者の生命を延ばすもので、家族のケアになる可能性のあるものであれば「治療」と位置づけたいと言う。
まず会田は1997年1月27日付けの新聞記事を示した。その記事は、認知症末期の患者が経口摂取できなくなったとき、点滴や栄養チューブの挿入せずにケアをして看取っていた施設を、「栄養チューブ使わず死亡」という見出しのもとに消極的安楽死を実行していたと糾弾する記事であった。高々15年前の記事であるが、終末期医療に対する考えが大きく変わってきたことを実感させる記事であった。次に会田は中村仁一『大往生するなら…』や石飛幸三『平穏死のすすめ』を紹介し、現在のトレンドとして延命治療を避ける方向に社会が大きく動いていることを示した。
患者の延命治療をどうするかは、患者本人、家族、医療者が充分に話し合いを重ねて決めて行くものだが、そのベースにあるのはインフォームドコンセント(informed consent「説明と同意」、以下ICと省略)である。ICは米国からもたらされたものだが、これは公民権運動、女性解放運動、消費者運動と続く、支配・抑圧からの解放要求の流れの中で生まれたものだと言う。1950年代の米国では、医師が強く患者が弱い父権主義の時代であり、患者の考えは医師が推定して、全ての決定を医師が行っていた。その後、患者の力が強い「消費者主義」に移行し、目的設定は患者が行い、医師は技術的な相談役に徹するという時代を経過したが、現在では両者が対等な力を持ち、共同で作業する「相互参加型」になっているとのことだ。
ICは「説明と同意」と翻訳されることからも分かるように、医療者からの説明に対して、患者側からは医療者のプランへの同意が与えられる。会田は、彼女の教室の清水が発表した、ICは相互的に行われるべきだという「情報共有-合意モデルによる意思決定プロセス」を紹介したが、非常に共感を覚えた。そのモデルとは「医療ケアチームは患者に対して生物学的な説明を行い、最善についての一般的判断を示す。それに対して患者(家族)は物語的な説明として、思想信条、価値観、人生観、死生観、人生計画などを説明する。両者がお互いの情報を共有した上で最善についての個別化した判断で合意するのが、真のICの形成ではないか」という論である。その通りだと思うが、consent(同意)という言葉よりagreement(合意)という言葉に変えたほうが良いのではないだろうか。
終末期の末梢点滴はどういう意味を持つのだろう。会田らが2010年に行った点滴の目的の調査では、「家族の心理的負担軽減」が69%、「スタッフの心理的負担軽減」が57%、「医学的に必要」が38%だったそうだ。会田は「何もせずに看取るのは、看取るほうの心が痛むから」あるいは「せめて点滴ぐらいしないと、親戚が見たら何を言われるか分からない」といった、「患者家族とスタッフの心理的負担の軽減」が目的で行われ、「点滴ボトルのさがった風景が、家族と医療・介護スタッフの情緒をケア」するのだと言い切る。しかし、この「日本的な看取り」に対して、患者本人の利益と不利益を真剣に考えるときであると提言する。
生命を延長するのは延長することで患者にとって良いことがあるからであるべきだと会田は言う。人は生命を土台として、その上で人生=物語(ナラティブ)を生きるというのが彼女の考え方だ。生命が続いていても、人生を織りなし、物語を紡ぐことができないのであれば、それは本当の生とは言えないということだ。本当の生を与えるのではない延命治療は、倫理的に避けるべきという結論に至る。
病院では、高齢者の死より、子供の死のほうが考えなければならないことが多い。医療の発展により子供が死ぬことが非常に少なくなったので、子供の死に関しては親の心理的動揺も大きい。親の精神的ケアや、スピリチュアルなケアが非常に重要になる。
また、親と医療者が対立する場合もある。医学的に見て救命すれば将来自立できるだろうと判断される障害児に対して、将来の行く末を悲観したり、療育の負担を恐れて親が治療を拒否することは稀ではない。医療ネグレクトにあたると判断される場合の医療者のとるべき行動は、その結果が、将来にわたって患者・家族の生活に影響するため、簡単には決められないことが多い(たとえば、治療しても、行き場の無い障害児を生み出してしまうこともある)。また、医学的に見て延命は無意味と判断される児の治療を強く望む親もいる。親が子供の運命を受け入れられないがために、延命により結果的に子供を虐待することになっている事例もある。私の経験では、母親が育児ノイローゼで子供の首を絞め、子供は脳死に近い状態になったが、父親はそれを受け入れられず、母親が出所したらまた3人で暮らすのだと、子供の延命以外は考えられないという事例があった。
子は親のものではない。歴史的にも、社会が子供の人権を制度的に擁護してきたのだ。医療者が親の意向から独立して治療方針を決定することが可能な社会が望ましいのではないだろうか。医療者がそこまでの責任を負うことについて、子供の将来を考えれば多くの異論が出ることと思うが、選択肢として考える必要があると思う。
最後にフロアからの質問に答える形で、会田が現行の福祉は子供に薄く、老年に非常に厚いが、今の老年者はそれを意識していないと指摘したことに、強い共感を覚えた。投票権の無い人々は、この社会では徹底して弱い。
会田は「延命措置」という言葉を使わない。「措置」とは、行われる医療行為が治療ではないという医学的判断に基づいて選択される語であるとし、会田は、その医療行為が患者の生命を延ばすもので、家族のケアになる可能性のあるものであれば「治療」と位置づけたいと言う。
まず会田は1997年1月27日付けの新聞記事を示した。その記事は、認知症末期の患者が経口摂取できなくなったとき、点滴や栄養チューブの挿入せずにケアをして看取っていた施設を、「栄養チューブ使わず死亡」という見出しのもとに消極的安楽死を実行していたと糾弾する記事であった。高々15年前の記事であるが、終末期医療に対する考えが大きく変わってきたことを実感させる記事であった。次に会田は中村仁一『大往生するなら…』や石飛幸三『平穏死のすすめ』を紹介し、現在のトレンドとして延命治療を避ける方向に社会が大きく動いていることを示した。
患者の延命治療をどうするかは、患者本人、家族、医療者が充分に話し合いを重ねて決めて行くものだが、そのベースにあるのはインフォームドコンセント(informed consent「説明と同意」、以下ICと省略)である。ICは米国からもたらされたものだが、これは公民権運動、女性解放運動、消費者運動と続く、支配・抑圧からの解放要求の流れの中で生まれたものだと言う。1950年代の米国では、医師が強く患者が弱い父権主義の時代であり、患者の考えは医師が推定して、全ての決定を医師が行っていた。その後、患者の力が強い「消費者主義」に移行し、目的設定は患者が行い、医師は技術的な相談役に徹するという時代を経過したが、現在では両者が対等な力を持ち、共同で作業する「相互参加型」になっているとのことだ。
ICは「説明と同意」と翻訳されることからも分かるように、医療者からの説明に対して、患者側からは医療者のプランへの同意が与えられる。会田は、彼女の教室の清水が発表した、ICは相互的に行われるべきだという「情報共有-合意モデルによる意思決定プロセス」を紹介したが、非常に共感を覚えた。そのモデルとは「医療ケアチームは患者に対して生物学的な説明を行い、最善についての一般的判断を示す。それに対して患者(家族)は物語的な説明として、思想信条、価値観、人生観、死生観、人生計画などを説明する。両者がお互いの情報を共有した上で最善についての個別化した判断で合意するのが、真のICの形成ではないか」という論である。その通りだと思うが、consent(同意)という言葉よりagreement(合意)という言葉に変えたほうが良いのではないだろうか。
終末期の末梢点滴はどういう意味を持つのだろう。会田らが2010年に行った点滴の目的の調査では、「家族の心理的負担軽減」が69%、「スタッフの心理的負担軽減」が57%、「医学的に必要」が38%だったそうだ。会田は「何もせずに看取るのは、看取るほうの心が痛むから」あるいは「せめて点滴ぐらいしないと、親戚が見たら何を言われるか分からない」といった、「患者家族とスタッフの心理的負担の軽減」が目的で行われ、「点滴ボトルのさがった風景が、家族と医療・介護スタッフの情緒をケア」するのだと言い切る。しかし、この「日本的な看取り」に対して、患者本人の利益と不利益を真剣に考えるときであると提言する。
生命を延長するのは延長することで患者にとって良いことがあるからであるべきだと会田は言う。人は生命を土台として、その上で人生=物語(ナラティブ)を生きるというのが彼女の考え方だ。生命が続いていても、人生を織りなし、物語を紡ぐことができないのであれば、それは本当の生とは言えないということだ。本当の生を与えるのではない延命治療は、倫理的に避けるべきという結論に至る。
病院では、高齢者の死より、子供の死のほうが考えなければならないことが多い。医療の発展により子供が死ぬことが非常に少なくなったので、子供の死に関しては親の心理的動揺も大きい。親の精神的ケアや、スピリチュアルなケアが非常に重要になる。
また、親と医療者が対立する場合もある。医学的に見て救命すれば将来自立できるだろうと判断される障害児に対して、将来の行く末を悲観したり、療育の負担を恐れて親が治療を拒否することは稀ではない。医療ネグレクトにあたると判断される場合の医療者のとるべき行動は、その結果が、将来にわたって患者・家族の生活に影響するため、簡単には決められないことが多い(たとえば、治療しても、行き場の無い障害児を生み出してしまうこともある)。また、医学的に見て延命は無意味と判断される児の治療を強く望む親もいる。親が子供の運命を受け入れられないがために、延命により結果的に子供を虐待することになっている事例もある。私の経験では、母親が育児ノイローゼで子供の首を絞め、子供は脳死に近い状態になったが、父親はそれを受け入れられず、母親が出所したらまた3人で暮らすのだと、子供の延命以外は考えられないという事例があった。
子は親のものではない。歴史的にも、社会が子供の人権を制度的に擁護してきたのだ。医療者が親の意向から独立して治療方針を決定することが可能な社会が望ましいのではないだろうか。医療者がそこまでの責任を負うことについて、子供の将来を考えれば多くの異論が出ることと思うが、選択肢として考える必要があると思う。
最後にフロアからの質問に答える形で、会田が現行の福祉は子供に薄く、老年に非常に厚いが、今の老年者はそれを意識していないと指摘したことに、強い共感を覚えた。投票権の無い人々は、この社会では徹底して弱い。