阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

【このブログ記事は11月29日に掲載したものですが、11月30日のために用意したものでした。11月28日に掲載すべき記事を抜かしたことから順序が狂いました。11月28日のブログ記事を変更しています。お時間がありましたらご参照ください。】

一昨日のブログで取り上げた中村ら編:『「訓読」論―東アジア漢文世界と日本語』(勉誠出版)から陶徳民(タオ・デミン)『近代における「漢文直読」論の由緒と行方―重野・青木・倉石をめぐる思想状況』について書きたい。陶は関西大学教授で、専門は近世近代日本漢学思想史・近代東アジア国際交渉史である。本論文は、1920年頃の日本の思想状況と、それに強い影響を受けた漢文学界の状況を分析している。

論文の冒頭は、以下の刺激的な文章で始まる。
今日の中国学界で、「漢文直読」という学問上・教育上の主張がかつて政治的に危険視されていたことを知っている人は、おそらくそう多くはないだろう。しかし、それは厳然たる事実であり、しかもリベラルな思想が流行っていると言われる大正時代のことであった。(49ページ)

荻生徂徠が漢文直読を推奨したことは昨日のブログでも述べたが、明治になり、清国を含む外国との交流が活発になったことから、重野安繹という漢学者は1879年の講演で、中国語に堪能な漢学者を養成すべきだと述べている。重野は徂徠を再評価するとともに、清国に学生を長期留学させ、中国人並みの読解力を身につけさせるよう訴えた。
考えてみれば、洋学一辺倒の時流のなかで敢て漢学の再興を唱え、少年留学生の清国派遣の必要性を鼓吹したことは相当の勇気を要することであったろう。しかし、多元主義の文明観の持主として漢学の起死回生を図ろうとした重野にしてみれば、これは己の当然の責務であった。(55ページ)

陶は、このような意見を堂々と表明できたということは、「明治前期の思想界における自由奔放で包容力のある気風をよく物語っている」としている。重野の後に訓読に強く反対したのが、重野より60歳以上年下の青木正兒と倉石武四郎である。彼らは中学時代に英語を学んでおり、その経験から漢文についても中国古典語としての教育が当然であると考えるに至ったようだ。

青木は『本邦支那学革新の第一歩』で、訓読の弊害を3つ挙げている。
1.訓読は読書に手間取って、中国人同様に早く読むことが出来ない。
2.訓読は中国語固有の文法を了解するには害がある。
3.訓読は意味の了解を不正確にする。

これらについていちいち解説する必要は無いだろう。訓読により意味が取れていると感じるのは錯覚であって、ニュアンスが失われており、辞義もすり替えられている可能性があるのだ。
倉石は『支那語教育の理論と実際』において、訓読では異なる字を同一の訓で読んだり、読まない字が生じたりすることで、中国人が考えていることが却ってわからなくなっていると指摘する。さらに「論語でも孟子でも、訓読をしないと気分が出ないというのは、信州に育った者が新鮮な生きの良い魚よりも塩鮭がうまいと言うようなものだ」と断言し、このくだりは「漢文訓読塩鮭論」として有名だそうだ。

ところで、第一次世界大戦後の日本の社会状況はと言えば、1918年夏の米騒動に前後して、労働運動、農民運動、婦人運動、部落解放運動、民本主義運動、社会主義運動、共産主義運動など、反権力的、反体制的運動が多様な形で展開した。これに対して政府は強い警戒心を抱き、反権力的、反体制的な運動には同調しないように国民を指導した。そのような状況下で漢文直読論は中国の五・四運動(1919年)に関連する動きと捉えられたのだ。

青木は京大で支那学を先攻し、中国の現代小説に熱中した。その後、他の研究者とともに雑誌『支那学』を1920年に創刊している。その創刊号に掲載予定だった『本邦支那学革新の第一歩』は第5号(1921年)まで掲載を延期されている。当時は漢字整理案が公表されたり、漢文科(当時は国語科と並んで漢文科がったらしい)の廃止問題などが論じられたりしていて、学界内も騒然としていた。漢文科の中では漢文を外国語扱いすること自体に、伝統の無視だとして大きな反発があった。現在では想像もつかないが、漢文教育を否定することは教育勅語を否定することに通じていたのだ。無論、青木も倉石も漢文教育を否定したわけではなく、ある意味で漢文教育の進化を促すために提案したことであったのだが、学界にはそれを理解する雰囲気すら無く、彼らは自説を強く主張することができなかったのだ。

教育は権力から独立している必要があるが、思わぬところで権力の爪痕を見ることになった。

【このブログ記事は11月28日に掲載したものですが、11月30日のために用意したものでした。11月29日に掲載すべき記事を抜かしたことから順序が狂いました。11月28日のブログ記事を変更しています。お時間がありましたらご参照ください。】

昨日のブログで取り上げた中村ら編:『「訓読」論―東アジア漢文世界と日本語』(勉誠出版)から中村春作『「訓読」の思想史―〈文化の翻訳〉の課題として』を取り上げたい。中村春作は広島大学教授で日本思想史を専門としている。ちなみに「訓読」とは、漢文に読み順を示す返り点や数字点を付し、送り仮名を補って、漢文本文を上下に移動しながら日本語として読んで行くという方法である。

本論文は、「漢文の訓読」に対するものとして初めて「やまとことば」が認識されるという視点から、日本語の成立に訓読が欠かせなかったとし、その訓読を成熟させるものとして、訓読を批判した荻生徂徠(1666-1728)があるという立場をとるようだ。
「訓読」という「読み方」が社会内に一定の公式として拡散し、近代の「知」の基盤や教養を形づけるに際して、荻生徂徠「古文辞学」の登場が契機となり、その方法論が提起した問題意識が一方で分有されると共に、それへの反発、公的な代案として出現したのが、「訓読」の定式化ではなかったかと考えるからである。(24ページ)

言い方を変えれば、以下のようになるだろう。訓読は徂徠以前にもあったが、定式化されたものでなかった。しかし徂徠が訓読を批判することにより、批判された側は訓読の改良、定式化に努めた。訓読が定式化されることで、文語文が成立し複雑な概念が文章化できるようになるとともに、漢語に対する概念として大和詞という概念が誕生した。

本書を通じて学んだことであるが、徂徠は一般の訓読を「和訓廻環の読み」と呼んで批判し、中国音による直読を「従頭直下(しょうとうちょっか)」として推奨している。しかし同時に徂徠は中国語で読めば分かるとも言っていない。地理的にも時間的にも隔たった古代中国の文章は読めば分かるというものではないので、解釈し、適切に翻訳すべきだと述べている。
こうして、「言語」の本来的有限性を認めつつ、「古今・華和」の間の断絶を克服しようとして言い出されたのが、「華音」による直読の主張であり、「廻環顚倒」して和文脈に読み替えるのではなく「訳」することの主張であり、独自の経書注釈の方法であった。それは、古代テキストに載る記述を、後世の論争的言辞による「解釈」を通じて理解するのではなく、その記述を記述として有意味たらしめていた当時の社会内諸事象を、その内に読み込んでいくことを通じて、彼の用語を使えば、「物」=「古言」として把握することを通じて理解しようとするものであり、それは世に見慣れた経書注釈の姿からは飛躍した、独自の「方法」なのであった。(28ページ)

さらに中村は、反徂徠の潮流の中で朱子学復帰の運動が高まり、正統的テキストが確立されて、「正しい読み」の必要性が生じることで、それまで「句読」とも呼ばれてきた習慣が、より制度的に「国文」化して朗誦する「素読」として成立したのではないか(36ページ)と提起する。

しかし、徂徠は訓点を拒絶していた訳ではない。実際彼は『六諭衍義』の加点を行なっている。これは元はと言えば将軍吉宗が室鳩巣に命じたものだが、鳩巣の邦訳を吉宗が気に入らず、将軍側から直々に徂徠に依頼があったものだ。その徂徠の訓点には、中村によれば特異な訓法は見られない。その中で徂徠の訓点の独自性を特徴付けるのは、口語的な振り仮名(左訓)の多用である。例えば「父母生成的…」の「生成的」に「ウミソダテルモノ」と振り、「許大的世界、許多的人民」の「許大的」に「カクヲゝキナル」、「許多的」に「ソコバクノ」と振っている。
徂徠は、文章右側の見慣れた「訓点」に加えて、左側に「俚語訳」[引用者注:俚語は普通の人の言葉。ここでは一般的な日本語]を付することで、「異質な文化」のいわば多層的な解釈をここで提示しているのだと言える。必ずしも自ら望んで行ったわけではない加点作業を通して、彼は、異文化としての中国文を、衆人にいかに具体的に呈示するかという試行を行ったのだと考えることができるだろう。それは複数の「読み方」を共存させて、文章を理解しようとする「読み方」であった。(41ページ)

荻生徂徠は偉大な学者であると知っていても、実質的には名前しか知らなかった。高等教育の場において、過去の遺産に直接接する機会を増やすことが望ましいだろう。

【このブログ記事は誤って掲載し忘れていたものです。11月28日分として11月30日に掲載し、この後のブログ記事は日付を1日ずつずらしています。】

中村春作、市來津由彦、田尻祐一郎、前田勉:編『「訓読」論―東アジア漢文世界と日本語』(勉誠出版)を読了した。複数の論文を集めた本で、編著者も多いため、本日は紹介をしない。今後、掲載論文を取り上げる際に著者について触れたい。

この本を読んで感じたのは、私が知らない世界がなだこんなにあったという感慨である。複数の学会があり、学術専門誌も複数あるのだが、畑違いの私は全く知らなかった。いや、私の知らない世界があることは、当然理解している。私が驚いたのは、漢文という中学生から親しんできた分野について、いかに私が無関心だったか、当然のこととして疑問を持たないことがいかに多かったかということについてだ。
戦後の学校教育において、「国語」教科書はなぜ、「古文」と「漢文」に部分けされるのか。そもそもそれはいつからなのか。高校の古典教科書の教材に、時代的、素材的な偏りが明らかに存するのはなぜなのか。私たち自身、高校において学んだ教材を思い出してみれば、『源氏物語』『伊勢物語』『竹取物語』『枕草子』『更級日記』『土佐日記』……等々が容易に思い出されるのだが、振り返ってみれば、その多くが平安朝の、それも女性によって書かれた文芸が中心なのはなぜなのか。平安期に漢文で書かれた詩文集が教科書に日本古典として登場しないのはなぜなのか。近世に目を転じてみても、十返舎一九『東海道中膝栗毛』や芭蕉の紀行文が教科書に載ることはあっても、当時第一級の文人と目された、伊藤仁斎、荻生徂徠らの文章が教材として登場しないのはなぜなのか。(7ページ、中村春作『なぜ、いま「訓読」論か』)

この中村の文章を読んだ時、私は愕然とした。私は、あるべき教育とは全てを公平に教えるものだと思っている。私がそのような教育を受けたいと思うのは、そのような教育により偏りの少ない人間が形成されると考えているからだ。本ならどのような本でも読んでみることにしているのもそのためだ。ところが、肝心の日本語教育で、教材の意図的な排除と選択が行なわれていたのだ。まさに「私たちを無自覚の内に規定してきた『近代の学知』(7ページ)」であり、「近代に成立した国民国家の枠組みにあわせて、その都合(「一国」という近代の枠組み)によって『学問的に』切り取られてきた歴史や言語や文学(8ページ)」があったのだ。このようなことを知ってしまうと、大袈裟に言えば「知恵の木の実を食べてしまった」ようなもので、国語教育について、今までと同じように見ることは困難になる。

社会科教科書、歴史教科書については、文部科学省の統制が厳しく、その思想的背景に偏りがあることは以前から指摘があり、私も知っていた。国語教科書については全く「ノーケア」だっただけに衝撃が大きかったのだ。自分の能天気を反省せねばならない。

この本を読んで思い出したことがある。私が通学していた中高一貫校は生徒にユニークな人材が多かったが、中に漢文の教師の訓読を批判する生徒がいた。訓読の流儀は複数あり、教師某は複数の流儀を混在させているのでものを知らないといった批判であった。その頃は聞き流していた批判であるが、本書により40年以上を経てやっとその批判の意味するところの片鱗を理解することができた。

↑このページのトップヘ