阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

吉田利康『悲しみを抱きしめて―グリーフケアおことわり』(日本評論社)を読了した。奥付によれば、吉田は1970年に大阪経済大学を卒業後、74年には大阪聖書神学校を卒業し、その後臨床牧会教育を修了しているとのことだ。臨床牧会教育とは初めて聞く言葉なので、いろいろ検索してみたが、聖職者や神学生に対して病院などの臨床の現場で行われる教育で、患者の抱える悩みや問題に接してそれらを神学的に分析したり援助を実践したりするものらしい。

吉田は1999年に白血病の妻を自宅で看取っており、その体験をもとに絵本『いびらのすむ家』を出版した。また月刊雑誌「病院」に10月まで「鉄郎おじさんの町から病院や医療を見つめたら」を連載していた。いずれもこのブログで取り上げている。現在は在宅ホスピスを支援するNPO法人「アットホームホスピス」の理事長である。

吉田は「グリーフケア」に強い違和感を訴える。実は彼は悲嘆の過程や研究を一般向けに書き下ろしたウェストバーグ『グッド・グリーフ』(原著:1962年刊、邦訳:1978年)を邦訳出版当時に読んでいた。非常に感動したそうである。
それから15年ほどの月日が流れ、自分自身が配偶者を亡くすことになります。すると、感動を覚えて読んだ前書を、再度読む気になりません。本棚の見えやすいところに置いてあるのに手が伸びない。それどころが、破り捨てたい衝動にかられます。「これはいったいどうしたことだろうか」と考えはじめたことが、この本の出発点です。(2ページ「はじめに」)

彼が違和感を訴えるのは、「グリーフ」や「ケア」という言葉と、その実践の両者に対してである。彼は英語のgriefは日本語の「悲しみ」と同じではなく、別の概念であると言う。従って、英語のgrief概念を日本語の「悲嘆」や「グリーフ」に置き換えたものを基礎に置いた「悲嘆のプロセス論」では、日本人の「悲しみ」に対することはできないと主張する。

私も吉田の結論には同意するが、結論に至る過程は大きく異なる。私は、進化学的に捉えている。ヒトは社会的動物である。社会を作って行動し、ヒトの赤ん坊はヒト以外の動物に育てられるとヒトになれない。これは、ヒトの胎児が脳の成熟前に出生し、最終的な成熟過程を子宮外で送ることと密接に関係していると考えられる。ほぼ完成した体で出生する他の哺乳類と大きく異なる。

社会的であるということは、食物獲得、育児といった外面的行動だけにあてはまるのではない。社会を維持するためにヒトは心理の深層で素早く密なコミュニケーションを行っている。つまり、社会を作ると言うことは、心理面でもネットワークを構成し、共同体全体として「集団心理」のようなものを構成していると言って良い。さらに私は、各個人の心も、周囲のヒトと密接に繋がっていると考えている。その繋がりとは情緒的な繋がりではなく、各個人の心の一部を他人の心が構成し、他人の心の中にも自分の心が侵入しているという意味での繋がりである。

ミツバチの社会から切り離されたミツバチは、ミツバチとして生物学的に不自然で不十分な存在である。ミツバチの行動は、ミツバチの社会とコミュニケートするという側面を切り離すと、意味が欠落する。個々のミツバチは、あたかもミツバチ社会という生命体の細胞のようである。ヒトの場合はそこまで「社会的」ではないかも知れないが、2人のヒトがいれば、お互いに強く影響し合うし、社会の中にいるヒトは、社会の雰囲気、風潮に大きく影響される。私は、個人の「心」の境界は、決して物質的な人体を境界とした明確なものではなく、もっと空間に拡散するような曖昧なものではないかと感じている。家族の死や、友人の喪失を「心の痛み」をもって受け止めるのは、自分の心の一部が失われるからではないかと思える。また、死んだ家族が自分の心の中で生きていると感じるのは、実際に心の一部が残っているからではないだろうか。

勿論、その「心」とは物質ではなく、精神の「働き」であり「観念」であるのだが、私は最近そのように考えている。私の思いを述べるだけでかなり長くなってしまったので、今回はここまでとし、次回、吉田の議論をもう少し深く追ってみたいと思う。

西村義樹、野矢茂樹『言語学の教室―哲学者と学ぶ認知言語学』(中公新書、中央公論新社)を読了した。西村は認知言語学を専攻する言語学者で、野矢は哲学者である。

本書は哲学者である野矢が、西村に認知言語学の講義を6回にわたって受けるという構成になっている。以前、南伸坊がその道の専門家に授業を受ける「個人授業」シリーズがとても面白かったのを思い出した。本書の生徒である野矢は西村より6歳年上で、先輩教授であり、西村は野矢の著書が好きで、よく読み返しているという仲だから、内容は非常に濃い。私は哲学にも言語学にも興味があるので、ことのほか面白かった。しかし、言語理論の詳細は(新書版であるから、非専門家に向けて書かれているとは言え)誰が読んでも面白いとは言えないだろう。ここでは、大局的な言語観を中心に紹介することにする。

言葉というのは、話す人の心の反映である。また、英語と日本語で全く同じ表現ができない以上、英語を母語とする人々と、日本語を母語とする我々日本人では、思考の様式が異なると感じている。これは、一般的に受け入れられている考え方では無いようだ。
西村 「言語の違いはそれを話す人々の思考様式・行動様式の違いを反映している」とする言語相対主義の考え方は、認知言語学によって再評価されてきているんですよ。
野矢 ぼくは哲学的な立場として相対主義を引き受けているので、そういうところでも認知言語学に惹かれるんだな。(8ページ)

東北人の心性と東北弁は密接に結びついており、京都人の心性と京都弁は一つのものと思っていたので、それを認めない考え方もあるということが、逆に新鮮だった。どのような考え方か、どのような根拠に基づくものなのかを知りたい。

従来の言語学の本に出てこないような面白い話としては「~てくる」の用法がある。
西村 じゃあ、もう一つ具体例を挙げましょう。「太郎が花子に話しかけた」と「太郎が花子に話しかけてきた」。これは、事態としては同じと言っていいと思うんですけれども、意味は違うと考えられる。
野矢 違いそうですね。どう違うのかな。
西村 「昨日、知らない人が私に話しかけました」は不自然でしょう? 実際、イギリス人だったと思うんですけれども、発音なんか日本人と区別がつかないほど完璧な人がいて、でもなんだか日本語がおかしいなと思って聞いていたら、こういう言い方だったんですよ。[中略]日本人だったらふつう「知らない人が私に話しかけてきました」と言うでしょう。つまり、自分に向かってくるという捉え方をしているので、「話しかける」ではなく「話しかけてくる」が自然なんですね。(50ページから51ページ)

ここで「~てくる」は「来る」から派生したと考えられるので、花子のほうに立場を置いた捉え方で、花子への接近を表すという解釈が示される。そして、その「接近」は物理的より心理的な距離の短縮の方に小点があるので、接近してくる相手は心理的距離を持てるもので無ければならず、特に単なる物体ではいけないという議論になる。
野矢 「西村さんが公園の猫に話しかけてきた」はなんだか違和感があるけど、「西村さんが私の猫に話しかけてきた」はまったく違和感がない。まだあります。「私」を主語にすると、「私は私の猫に話しかけた」は言えるけど「私は私の猫に話しかけてきた」は不自然。こうしたことはぜんぶ私に対する心理的距離という観点から説明できますね。いやあ、おもしろすぎる(笑)。
西村 もう一つ、「てくる」に関連しておもしろいのは、英語には「てくる」に対応する表現がないんですね。これはなぜかという……。
野矢 だからそれはね(笑)、対人関係における心理的距離に対する感受性っていうのは、やっぱり日本人の方が少なくともアメリカ人よりずっと敏感なんですよね。まあ、そこまでいくとほとんどでまかせだけど。でも、感じ出てるでしょ?(52ページから53ページ)

このような違いが扱える認知言語学は、西村が自慢する通り、面白い。

勝間和代『専門家はウソをつく』(小学館新書)について引き続き述べたい。勝間はマッキンゼーやJPモルガン証券などを経て独立した経済評論家である。本書の第4章が「医療・健康分野を批判的に考える」であるので、今回は第4章に限定して考察したい。第4章について考えていくと、俄然批判的な指摘が多くなる。これは、とりもなおさず医療が私の専門領域だからということになろうか。
たとえば、私たちは「医者」というだけで、相手が医学に関して話すことをすべて信用してしまいますが、ひとりの医者が専門とする分野、知識、そして、臨床で適応できることは、ものすごく狭い領域です。また、医学についても、わかっていないことのほうが遥かに多いのですが、それをいかにも
「俺はすべてを知っている」「周りの医者は××が間違っている」
というように、自己の重要性を誇大表示する人は、トンデモ専門家である可能性が濃厚です。(95ページから96ページ)

その通りだろう。しかし、世間は歯切れよくものを言い、周囲を手厳しく批判する人間のほうを信用したがる。既存の癌治療を攻撃して止まない近藤誠と、それを横目で見て苦虫を噛み潰しながら治療に当たる医師を比較してみると良い。こう言いながら彼女は近藤誠の本を参考書目に挙げている(113ページ)。彼女が近藤のトンデモ本をリストに挙げた真意は不明である。

彼女はこうも言う。
私たちは生物である以上、死にたくないのです。老化もしたくないのです。そして、死への恐怖というのは、私たちの理性を麻痺させます。だから、全財産を投げうってでも「死にたくない」のです。(96ページ)

本当にそうだろうか。確かに誰でも死にたくはない。生物には生き続けようとするメカニズムがあるし、生命を維持しようとする本能も備わっている。しかし「何が何でも生きようとする」ことは無い。少なくとも人間の場合、ひたすら死を避けるのではなく、相応しい死に場所、死に方を考える文化があったはずだ。死は、忌み嫌うべきものであったが、共存(という言葉は相応しくないかも知れないが)が避けれらないものでもあった。私は、現代人の医療的な不満足感が「全財産を投げうってでも死にたくない」感覚に由来していると考えており、「ただ生命がありさえすれば良い」という姿勢から、QOLを重視し「何のために生きるのか」を考慮する姿勢に転じることが必要だと思っているのだ。

また、彼女は、現在一般的に行われている治療法が、将来「誤った治療法」として否定される可能性があると指摘し「これはほうんとうに恐ろしいことです(101ページ)」と述べている。これは恐ろしいことでも何でもなく「当然のこと」なのだ。先に引用した部分にあるように、「医学についても、わかっていないことのほうが遥かに多い」のであるが、分かっている部分といない部分に分けられるのではない。全ての分野で分かっていない部分のほうが多く、一部の分野で少し分かっているということなのだ。医学の領域を地図に喩え、分かっていない部分を黒で、分かっている部分を白で表すとすれば、地図は白黒のまだらになるのではなく、一面の黒っぽい灰色に、所々少し明るい部分があるといった具合なのだ。

彼女は無意味な治療の候補を挙げるが、ではなぜ無意味と考えられる治療が広範に行われているのか。彼女は「そこには利権があるから(106ページ)」と指摘する。これは正しい。ただし、彼女は利権を製薬会社の金銭的利権と狭く捉えているようだが、これには私は反対だ。私はここに「研究者のインセンティブを巡る利権」や「医療者のプライドを守るという利権」など、金銭的以外の利益も含めたい。つまり、研究者は疾患の発症機構を解明し、それに対する薬を開発することで名声を得るし、医師も「何もできない」では格好がつかないので「薬を出せる」と振る舞うことで医療者としての地位を保全したいのだ。さらに、利権だけでは不十分で、患者側の「何かしてもらわないと気が済まない」という心理も、不要な「治療」が行われる背景として指摘しておかねばならないだろう。

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