新興の学会である臨床倫理学会の第2回年次大会に参加した。基調講演を行ったスティーヴン・ポストはニューヨーク州立大学の教授で予防医学、医療倫理、生命倫理を専門としている。彼は認知症(dementia、痴呆)を「deeply forgetful(深刻な健忘)」と表現していた。Dementiaと言うと疾患になるが、われわれ誰もがさまざまな場面で物忘れをすることがある。それが非常に重症になった場合が「認知症」という捉え方ができるので、物忘れを一連のスペクトラム(さまざまな程度の連続した現象)であることを強調する「deeply forgetful」という表現を選んだのだと言う。
講演のタイトルは「Hope, Dignity, Ethics and the Deeply Forgetful(希望、尊厳、倫理と認知症患者」で、「Enduring Selfhood and Being Open to Surprises(失われることのない自己と驚きを待ち受ける態度)」という副題がついていた。この副題に、今回の講演のエッセンスが詰まっていた。
「Enduring Selfhood」とは、認知症になっても、その人の人格や歴史はその人の中に消えることなく残っているという、長年の観察から得られた彼の結論である。認知症の人が、理解し難い振る舞いをしても、それには何か歴史や理由があり、その人の歩んだ人生を知ることで理解できると言う。彼が挙げた例は、彼に木の枝を渡して微笑んだ老人だ。老人は子どもの頃、父親の手伝いをして暖炉に薪をくべることがあった。老人が木の枝を渡す行為は、父との繋がりや無私の愛を象徴するものだと分析する。
認知症となっても、人はさまざまな機能を残しており、絵や音楽などに才能を見せて周囲を驚かすことがある。そのような驚きを敏感に感じ取る心の持ち方を 「Being Open to Surprises」と表現している。認知症患者にとって重要なのは、生命を長引かせるための治療ではなく、一部の機能を失ったものの「その人」であり続ける患者の尊厳を重視することだとしていた。
彼は認知症者を一人前の人間と見ない考えを「"hypercognitive" value」として批判していた。わかりにくい言葉だが、造語法に問題があるようだ。彼の主張は「人として尊重するかどうかを認知能力の多寡によって決める("cognitive" value)」考え方が行き過ぎている(hyper)ということを言いたいようなのだ。それならば「cognitive hyperevaluation」などとしなければならない。「"hypercognitive" value」では「超認知的価値」となってしまい、何だかわからない。彼は、認知症者の認知能力をグラスの中のワインに喩え、「グラスにワインが半分残っているとき、『半分しかない』と言うのではなく、『半分はある』と考えよう」と言っていた。
彼の話には聖書からの引用もたびたび登場し、宗教的なバックグラウンドを感じさせた。もっとも彼は、ひとりひとりの人間の中には物質を超越した霊的なものが宿っているという考え方は普遍的な考え方で、キリスト教文明のみならず、ヒンズー教にもあり日本にもあると述べていた。その「霊的なもの」が人間の尊厳の源だと言う。
この講演で残念だったのは、通訳が不適だったのと、フロアからの質問の時間をとらなかったことだ。通訳は事前に渡された原稿の日本語訳を読んでおり、実際の講演と食い違うことがあった。また、講演の副題も「『継続する自己』と『驚きへの扉を開けること』」となっており、何となく耳ざわりの良い言葉が並んでいるが、意味は原文と一致しない。これも通訳が訳した文章だろう。講演が終わると間髪を入れず(不自然なほど、まるで焦っているように)通訳が演者にお礼を述べ、座長が無意味なコメントを述べて講演を締めくくった。私の隣に座っていた人は質問の手を挙げかけていたが(前から3列目で座長の正面だったので、目に入った可能性は高い)、無視された格好だった。
講演のタイトルは「Hope, Dignity, Ethics and the Deeply Forgetful(希望、尊厳、倫理と認知症患者」で、「Enduring Selfhood and Being Open to Surprises(失われることのない自己と驚きを待ち受ける態度)」という副題がついていた。この副題に、今回の講演のエッセンスが詰まっていた。
「Enduring Selfhood」とは、認知症になっても、その人の人格や歴史はその人の中に消えることなく残っているという、長年の観察から得られた彼の結論である。認知症の人が、理解し難い振る舞いをしても、それには何か歴史や理由があり、その人の歩んだ人生を知ることで理解できると言う。彼が挙げた例は、彼に木の枝を渡して微笑んだ老人だ。老人は子どもの頃、父親の手伝いをして暖炉に薪をくべることがあった。老人が木の枝を渡す行為は、父との繋がりや無私の愛を象徴するものだと分析する。
認知症となっても、人はさまざまな機能を残しており、絵や音楽などに才能を見せて周囲を驚かすことがある。そのような驚きを敏感に感じ取る心の持ち方を 「Being Open to Surprises」と表現している。認知症患者にとって重要なのは、生命を長引かせるための治療ではなく、一部の機能を失ったものの「その人」であり続ける患者の尊厳を重視することだとしていた。
彼は認知症者を一人前の人間と見ない考えを「"hypercognitive" value」として批判していた。わかりにくい言葉だが、造語法に問題があるようだ。彼の主張は「人として尊重するかどうかを認知能力の多寡によって決める("cognitive" value)」考え方が行き過ぎている(hyper)ということを言いたいようなのだ。それならば「cognitive hyperevaluation」などとしなければならない。「"hypercognitive" value」では「超認知的価値」となってしまい、何だかわからない。彼は、認知症者の認知能力をグラスの中のワインに喩え、「グラスにワインが半分残っているとき、『半分しかない』と言うのではなく、『半分はある』と考えよう」と言っていた。
彼の話には聖書からの引用もたびたび登場し、宗教的なバックグラウンドを感じさせた。もっとも彼は、ひとりひとりの人間の中には物質を超越した霊的なものが宿っているという考え方は普遍的な考え方で、キリスト教文明のみならず、ヒンズー教にもあり日本にもあると述べていた。その「霊的なもの」が人間の尊厳の源だと言う。
この講演で残念だったのは、通訳が不適だったのと、フロアからの質問の時間をとらなかったことだ。通訳は事前に渡された原稿の日本語訳を読んでおり、実際の講演と食い違うことがあった。また、講演の副題も「『継続する自己』と『驚きへの扉を開けること』」となっており、何となく耳ざわりの良い言葉が並んでいるが、意味は原文と一致しない。これも通訳が訳した文章だろう。講演が終わると間髪を入れず(不自然なほど、まるで焦っているように)通訳が演者にお礼を述べ、座長が無意味なコメントを述べて講演を締めくくった。私の隣に座っていた人は質問の手を挙げかけていたが(前から3列目で座長の正面だったので、目に入った可能性は高い)、無視された格好だった。