阿部和也の人生のまとめブログ

私(阿部和也)がこれまで学んだとこ、考えたことなどをまとめていきます。読んだ本や記事をきっかけにしていることが多いのですが、読書日記ではありません。

この本でサンスティーンが一貫して批判あるいは危惧しているのが、インターネットの発達によりかえって情報が行き渡らなくなることだ。インターネット上には個人の処理能力を超えた量の情報が、文字どおり氾濫している。発信することは非常に容易になったと言えるだろう。受信も、自分が得たい情報がわかっているなら検索により探し出すことができる。しかしインターネット上にある情報の全体像をつかむことは不可能だ。自分の持っている考えが、社会全体の中でどのような場所を占めるのか、自分の得た知識が知識体系の中のどこに位置付けられるのかを知ることは非常に難しい。

彼は、自分も友人もフェイスブックを利用しているが、保守派の友人のページは彼自身のページと「かなり様子が違う」として、次のように述べる。

われわれは異なる政治世界で暮らしているのだ — それはSFに出てくる並行世界パラレルワールドに似ている。ニュースだと思い込んでいるものの多くはニュースもどきでしかない。(7ページ)

個人的な生活はそれで満足できるかもしれないが、国民が国家を支えようというのであれば(そしてそれが共和制だが)、そのように分断された小グループからなる社会ではうまくいかない。皆が自分の周囲のことしかわからなければ、国家全体の運営方針など決められないからだ。

第1章は「デイリー・ミー」で、これは自分専用の新聞を表す。「日刊自分」といったところだろうか。自分が興味を持っている情報や、自分に役立つと思える情報しか掲載されていない新聞だ。フェイスブックやツイッターのフォロー、アマゾンやグーグルの広告により、私たちはすでにそのような世界に入りかけている。検索をすればするほど、リンクをクリックすればするほど、品物をネットで注文すればするほど、私個人に向けられた広告は洗練され、自分でもびっくりするような、私の趣味や必要性に合った商品やニュースが紹介される。

彼は、そのようなシステムの中に、偶然の出会いをもたらす仕組みを組み込むことを提案する。その仕組みを彼は「セレンディピティのアーキテクチャ」と呼んでいる。セレンディピティ(serendipity)とは「偶然に大発見をする幸運」で、辞書によれば「ペルシャの物語The Three Princes of Serendipの中の王子たちがこれを持っていたので」付けられた呼び名だと言う。

ここで私がとくに訴えたいのは、実のところ、個人の生活、集団行動、イノベーション、民主主義そのもののための、〝セレンディピティのアーキテクチャ〟である。ソーシャルメディアがその人専用のタイムラインを作成し、おもにその中で生活することを可能にするかぎり、深刻な問題が生じる。また、一人ひとりのための、もしくは好きな話題や好みの集団のために個別化した経験やゲーテッドコミュニティのようなものをサービス提供者が作れるかぎり、用心するべきだ。自己隔離と個別化は真の問題の解決策にはなるが、偽情報を拡散して、分極化と断片化を助長することにもなる。一方、セレンディピティのアーキテクチャは同類性に逆らい、自治と個人の自由の両方を促進する。(10ページから11ページ)

同じような意見を持った人だけが集まる排他的な集団(ゲーテッドコミュニティ)は、たしかに居心地がよいものだろう。だが、そこで共有される情報の信憑性を客観的に評価し、歪んだ情報を正したり排除したりする仕組みがなければ、結局は偽情報の温床になってしまう。その集団がいくら居心地が良くても、それはその集団の存在によって利益を得る会社や政治勢力の収入源でしかない。集団のメンバーはけっして自由ではないのだ。サンスティーンはそこに異質な情報を持ち込むことが、メンバーを解放することにつながると考えている。

この本の巻末には慶應義塾大学法科大学院の教授である山本龍彦の「解説」が付いているが、サンスティーンの主張を非常にうまくまとめてある。解説は4節に分かれ、最後の第4節は「日本における受容可能性」である。この最終節のタイトルからもわかるように、この本の主張は米国社会を念頭に置いて書かれている。展開される議論は、インターネットやSNS上の現象が中心で、世界に共通する問題を取り上げているが、議論を進める上での中心は合衆国憲法である。一般論として読めないこともなく、また、法学者が読めば非常に参考になるのだろうが、合衆国憲法修正第1条すら知らない私のような素人にとっては少しもったいない本だった。

山本は解説第4節で次のように述べている。

日本では、個人が政治的主体(「市民」)として「自由」を公共的に行使するという憲法文化は根付いていない可能性がある。一般には、表現の自由や知る自由は、好きなことを言い、自らの好む情報を受け取る自由として、私的に、あるいは — サンスティーンの言葉を借りれば — 「消費者」的に捉えられてきたところがある。私の経験上も、学際的な場や講演会場等で、「『フィルターバブル』や『情報の繭』は憲法上問題があるかもしれません」などと発言すると、「自分が好き好んでバブルや繭に包み込まれているのだから、別にいいじゃないですか」と反論されることが多い。(364ページ)

念のため付け加えておくと、「フィルターバブル」も「情報の繭」も各個人に対しその人に限定された情報しか届かない様子を表す。「フィルターバブル」ではフィルターで濾過された情報のみが届くという受け身な感じがあり、「情報の繭」では自分が閉じこもるという積極的な感じがある。

サンスティーンが取り上げている社会は共和制だ。教科書的に言えば、日本は民主主義国家ではあるが君主制だ。しかし冒頭にも述べたように、サンスティーンが問題としているのは今日のデジタルコミュニケーション社会が抱えている問題であり、広く世界中に当てはまるのではないかと思う。各論については明日以降に書いていきたい。

キャス・サンスティーン『#リパブリック — インターネットは民主主義になにをもたらすのか』(勁草書房)を読了した。サンスティーンは『選択しないという選択』を取り上げたときに紹介したように憲法学者でハーバード大学教授であり、オバマ政権では行政管理予算局の情報政策及び規制政策担当官を務めた。翻訳者も同じ伊達尚美である。

今回も彼女の翻訳にフラストレーションがつのった。だが、これをきっかけに、日本語の論理構造についてかなりいろいろ考えたので、結局は役に立ったと言える。6月20日のブログ記事で使用した引用文は、実はこの本からのものだった。

今日の記事を書くためにあちこち拾い読みしたが、さすがに2度目だと内容が頭に入っているので、読みにくさがずいぶん緩和されている。これはある意味で翻訳者にとって困ったことでもある。翻訳者は原文を読んでおり、内容を把握している。そしてそれを日本語に直した本人であるため、訳文も読み慣れている。何も知らずに初めてその訳文を読んだ読者と同じ経験をすることができない。翻訳の経験を積むことで、「この表現では伝わらない」などと感づくようになるのだが、そのためには翻訳以外でも文を書いたり本を読んだりする努力が必要となる。要するに翻訳者の「日本語力」が問われることになる。

揚げ足取りになってもいけないので、どのように訳すと伝わりやすいかを考えることとしたい。次の引用の冒頭の文を題材とする。

最新の形態のテレビやラジオ、ウェブサイトやソーシャルメディア、あるいはそれらを統合したり、枠を超えたりする未来の技術を政府が規制しようとしているとしたら、自由社会は政府の規制に反対するのでその試みは失敗するはずだ、と述べることは意味がない。自由社会は政府の規制に反対しない。いずれにせよ、少なくとも発言したがる人々を閉め出す財産権という形での政府による言論規制は、報道機関の法的所有者のために排除権を尊重し、それゆえ排除権を設定する自由のシステムに広く行きわたっている。(252ページ)

実は私はこの引用部分全体の意味がよくわからなかった。何度も読み直してわかったつもりにはなったが、いささかこころもとないことを了承していただきたい。

「意味がない」発言であることを冒頭に示す必要がある。いちばん簡単なのは冒頭に「次のような意見は意味がない」と、最後の部分を持ってくることだ。だがこれでは訳文がいかにも稚拙だ。そこで、なぜ意味がないのかという理由を前に持ってくることにする。英語では説明が後にくるが、日本語では前にくることを意識している。

試訳:自由社会が政府の規制に反対するというのは思い違いだ。だから、最新の形態のテレビやラジオ、ウェブサイトやソーシャルメディア、あるいはそれらを統合したり、枠を超えたりする未来の技術を政府が規制しようとしても「自由社会は政府の規制に反対するのでその試みは失敗するはずだ」という主張は意味がない。自由社会は政府の規制に反対しないのだ。

最後の文は削除しても良い。わかりやすくなっただろうか。

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